2014年8月25日月曜日

「私たちが、行動をする理由」についての考察

パラレルな知性という鷲田清一元阪大の総長が書いた本の中に「大学の社会的責任のもう一つの果たし方」という話題がある。その中で、鷲田先生が、友人のアートマネジメントをしている友人に「人は何を求めて、美術館に足を運ぶのか」と問うたとき、友人は3つの異なり理由があると答えたという。
1.見たかったものを見に行く
2.見たこともないものを見に行く
3.見なければならないものを見に行く

これは、このフレーズの後に、鷲田先生は「人が大学で学ぶ理由」について以下のように考察している(先生は、こうであるように願っていると書いた)。
1.これまでずっと知りたかったものを知るため。
2.これまでそのような問いが存在することさえ知らなかったものを知るため
3.人として知っておかなければならないことを知るため
知的好奇心にあふれる学生の多くは、まずは第一の理由で入学してくる。そして、その一部が第二の理由に目覚める。そして、さらにその一部が、第三の「教養」の重大さに気づく。

というものだ。

この内容をみたときにふと考えたことは、「私たちが、行動をする理由」についても同じように3つに分けることができるのではないかということだった。同じように書いてみると、ぼくはしっくりくるなぁと思った。

1.自分が、ずっとやりたかったことをやるため
2.自分が、これまでやったことのないことをやるため
3.自分が、やるべきことをやるため

ここで、1つだけ注釈を入れておくと、「美術館に足を運ぶ」のも、「大学で学ぶ」のも、「私たちが行動する」のも、全て自発的であるという仮定に基づくとしておこう。そうしないと、議論がぶれそうだから。

私たちは、行動をするときいつも「やりたかったからやる」ということが多いように思う。それは、挑戦的で、刺激的で、結果がどうであれ多くの場合は自分の糧になると思うから。でも、それだけでは「やりたいことだけやっている人」である。もちろん、それが楽しくて、それだけで生きていける運のいい人もきっといる。でも、誰もがそうではない。そんな、ある意味残酷な、それでいて真理に近いことをわかった人達は次のステップに駒を進めることを自然に行う。

それは「(やりたいかどうかは別にして)やったことのないことをやるために」に行動しようとするということである。この目的は、僕にはまだわからないけども、「スリル」が目的なのではないように感じる。「スリル」が目的なら、多くの場合「やりたいこと」だからだ(例外もあるかもしれない)。でも、「やったことのないことをやる」というのは、もちろんのこと「リスク」が伴う行為である。失敗する可能性は多いにあるし、「知らないもの」に対して人は「恐怖心」を抱きやすい。でも、それでも挑戦するというのはそこに「何らかのメリット」や「目的がある」と考えるのが自然で、「自分の好奇心」だけではない。
僕の場合、「やったことのないことをやる」というのは、自分自身の経験の幅を広げたいと思ったり、達成したい目的(成功・名誉・金銭・感動など)に対する手段がそれしかなかったり、「人の役に立って喜ばれたい」という何らかの「自分の好奇心」以外の「目的」の存在が見え隠れする。つまり、「目的の設定」が背景メカニズムとしては起こっていると僕は思う。

そして、そんな中の一部が、「やるべきことやる」ことの重大さに気づくようになるのではないだろうか。ここでいう「やるべきこと」というのは、誰かから押し付けられるものではなく、むしろ自分自身で「やるべきだ」と自然に感じるようなことである。そこには「目的」の存在というよりも、「自分との向き合い」というものが中心にあるように感じる。ここでいうやるべきことは、「強制されない」と先ほど書いたが、つまり自分が自分自身に「課す」鍛錬のことと言える。それは、自己の能力の正当な評価と、自分に必要な知識・知恵への不足から生じる「恥」の概念などから生じてくるものなのかもしれない。浮き足立つのではなく、身を修めることに重きを置き、社会で恥ずかしくない人間として生きていくために必要な物事を身につけようとする姿勢である。そして、この「やるべきこと」を通して「身を修める」というのは生涯続くもののような気がする。


ただ、一つ注意を入れておくと、最後の段階まで到達するのが「正解」であると言いたいわけではない。むしろ、こういう風になる人もいるんじゃないかということだ。

しかしながら、第1の段階から、第2の段階には歩を進めたいものだと思う。ただ、そのためには一つの世界やコミュニティーだけで生きては、第2に歩を進めることの大切さには気づくことは難しいのではないかと思う。違う世界で様々な価値観(即ち、優先順位に対する考え方)に触れ、自分は本当に今の考え方のまま生きていくのかと考えるときに第2の段階に歩を進めることができる気がするのだ。ただ、第1と第2の状況は共存しうると思う。

そして、僕は、残念ながらまだ第3の世界に足を踏み入れることはできていないように思う。残念ながらまだ自分には「目的」ありきで行動する方が意識の中で強い。どうしても、身を修めるところまでは考えられていないように思う。いつかは、そうなれるのだろうかとふと気にかかる。

「私たちが、行動をする理由」というテーマについては、
これからも少しずつ考えていきたいなと思った次第だ。

2014年8月24日日曜日

楽観的な考え方と悲観的な考え方はどこから生まれるんだろう?

最近読んだ「Sunny Brain, Rainy Brain」にはこんなフレーズが書かれていた。悲観とは「物事を自分の力ではどうしようもない」と思う気持ちであり、楽観とは「物事の少なからず一部分は自分が変えられる」と思うような気持ちであると。そして、どちらが良いということではなく、どちらも重要なのだけど、「自分の力で何かできる」と思う人は成功したり、協力者が増えたり、幸せに生きている人が比較的多いのだそうだ。厳密には色々な議論が脳科学の世界でされているみたい。

僕は、このことを聞いたとき少しばかり気になることがあった。それは「これらの思考のあり方がどのようにして形成されるのか?」という根本的な疑問である。

確かに世の中には、「自分の力だけではどうしようもないこと」というのがたくさんある。これは事実であるし、本当にどうしようもない。北朝鮮と日本の政治問題なんて到底扱える気がしないし、核ミサイルの発射を僕に止める力はない。それから、新しいベンチャーと立ち上げると言っても、自分にどんな魅力があるのか、そしてどんなアイデアで戦うのか、本当に勝てるのかということを考えると、これも「自分の力だけではどうしようもない」し「自分は無力だ」と思ってしまう。世の中で自分が「やろう!」と思うことの大半は、考えれば考えるほど「自分の力ではどうしようもないこと」である。

しかしながら、一方で「自分の力がある程度及ぶ範囲もある」というのも事実である。例えば、大学の授業がもっとこうすればいいのにと思えば、少なくとも先生と話し合って意見を聞いて議論して小さくても変えることはできる。大学の勉強以外にも社会との接点をつくるべきだと思えば、それを行動してつくることができる。僕ならデータの解析を、少なくとも手伝うことができるだろう。

しかしながら、こんなことを思いつつも僕は一応テスト上は相当な「楽観脳」の持ち主だそうだ。影響を与えられない無力なことと、影響を与えられることの2つが存在しているのに。そして、これは誰しもそうなのにどこで分かれたのか。そんなことを考えるうちに、こんな言葉を想い出した。
適切な場所で、十分な努力をすると、成功します。・・・(*)
この言葉は、言葉の上辺をなぞれは「そりゃそうだろ」という言葉なのだが、どうもこの言葉が示す成功への道には、色々とメカニズムがあるんじゃないかと思い始めた。成功というのは「人それぞれ」だと思うが、少なくとも私たちは「幸せになりたい」というのは事実であるから、成功を「幸せになる」と読み替えても差し支えがないだろう。

では、どうしてこの言葉を「そりゃそうだ」と思うのか。それには、この言葉を吟味するとわかってくる。まず「適切な場所」という言葉だ。「適切な場所」というのはどのような場所なのだろうか。僕は、こう解釈した。

「適切な場所」=「誰が必要としている」「あなたにしかできないようになる」「努力に評価が比例する」場所

ここで、1つ浮かんだが入れなかった言葉がある。それは「自分が好きな」という言葉。この理由は、私たちのモチベーションというのが多くの場合「他者からの評価」によってもたらされているからである。確かに「自分の好きなこと」をするのはいいのだが、残念なことに「自分の好きなこと」が他者からの評価を得られるのかは別の話だ。それはどちらかと言えば趣味に近いし、その領域に他のことを全力で取り組めるのかというと、社会はそんなに甘くなさそうである。なので逆に「誰かが必要としている(必要になる)」という言葉を入れた。そういう場所は、議論が生まれやすく、自分のモチベーションを管理することもしやすい。努力に評価が比例するというのも同じ意味。

そして、「あなたにしかできないようになる」という言葉には、今は誰にもできないか、もしくは本当に少数の人しかできないようなこと。という意味。そして「今、自分ができる必要はない」ということ。それから、今の段階で他の人より少しアドバンテージがある領域なら尚いいだろう。

そして、問題は「十分な努力」という言葉である。この言葉は、非常に難しいんだけど、十分というのが「どこから見て十分なのか」という視点からすると、「現実に、使うに足る」「自分自身で」十分だと感じる努力だと思う。そして、そうすると「成功する」ということだ。

これが、どうして「成功」につながるのかだけども、実は上のような行動が「楽観的な脳」が生まれることにつながるからなんじゃないかと思う。あくまで推測だけれども、「努力する」「人から評価される」というのは、「自己肯定感」を高めるのにとても重要なファクターで、他者と比較するのは良くないと言いつつも、自分に「存在価値」を感じるためには必要なことである。努力はもちろんだけど、人から「評価される」というのは自分自身を(自分の周囲の)社会が認めてくれた証であり、少なくとも誰にとっても嬉しいことで、「もっとがんばろう」「もっと、役に立つことは何か」という気持ちや考え方を生み出す原動力である。自己肯定感を生成する行為は、「自分ができるかもと思う範囲を、脳の中で広げる役割」があると思う。

ここで、もう1つ因果関係のループに注目しておく必要があると思う。それは「努力」と「評価」の関係性である。

さて、これは少なくとも僕の話。僕は「評価されない」「社会がおかしい」と嘆いていた時期がある。その僕を、今の僕がみてみると、確かに「言っていることは正しい」と思いながらも、どうしてもその僕に「協力」したり、「応援する」気持ちが生まれない。
いや、当時、自分なりに努力はしていたのかもしれない。学生団体もやっていたし、たくさん活動もしていた。でも、どういうわけか当時の自分を応援しようと思わない。

でも、今思い返せば、僕は「正当な努力」をしていなかった。なんというか、僕は「好きなことをやっているだけ」だった。自分が「成し遂げたい」ことに向かって、努力すると言いつつ、好きなことしかしていなかった。成し遂げたいことを聞けば「知識を仕入れる」ことが真っ先に必要なことはわかるのに、全くそれをせずに、やりたいことに集中した。結果的に、発言が表面的になり、深みがなく、何より「その僕がやる意味」が伝わらなくなっていた。それは面白いねという周りの人達の反応もどうも上辺だけだったように思う。結果、夢は大きい、でもさ、、、、君は何ができるの?という質問には何一つ答えられなかったんだ。

結果的に、「僕しかできない何か」が生まれてはいなかった(気配もなかった)。それが原因で、「評価」が生まれず、嘆くことになり、悲観脳が加速した。世の中が当時は、絶望的に見えた。どうして、僕に頼らないのか?と疑問になったこともある。ただ、そこまで悲観的にならずに済んだのは、僕を必要としてくれる仲間がいたことだった(必要としてくれる仲間の存在は大切だ)。


非常に一方的な、偏見のある意見かもしれないけど、「自分にしかできない(少なくとも少数のエキスパートになれる)こと作ろう」を考えずに、「自分がやりたいこと」ばかりに傾倒してしまう人は、結果的に「評価」が生まれず、悲観的にならざるを得ないんだと経験から思う。結果的に「自分できることはない」と思ってしまって、「ふさぎこむことになる」か、「威勢だけいい人」になるかしかない。後者の人は、楽観的かもしれないが「まがい物」だ。それなら、小さくてもいいから自分のいるコミュニティーで「自分にしかできない、必要とされること」を小さくてもいいからつくり始めた、小さな「楽観脳」の方が遥かに健全だ。小さくとも、そういう人は頭の中が好転してくるように思う。

一方で、「自分にしかできないことを作ろう」として、適切な努力を見極めて、好き嫌いを言わずに全力でできる人は、適切な場所であれば、きちんと評価され、そして「自分はできる」という考え方を身につけていく。同時に、謙虚な姿勢を手に入れると思う。自分は知らない、だから教えてくれ。という感じの。それが、自分に取って利益になると知っているかのように。

「努力してるのに、評価されない」というのは、1つは「自分自身が努力を過大評価している」可能性を疑うべきだと思う。僕も、そういう一面がかつてあったからよくわかる。「自分がしている十分な努力は、通常の人がやっている努力の8割に過ぎない」と考える方がいい。もしくは、「魅力のない領域で、独りよがり」である場合もある。この場合は、きちんとヒアリングをした方がいいと思う。仲間と議論して深めないといけない。

今の僕が少なくとも楽観的でいられるのは、当時よりは遥かに努力をしているし、同時に正当な評価ももらえているからだと思う。結果、「自己肯定」の感覚は生まれている。それから、「他に何かできることはないか」と「恐怖」よりも「機会」に目がいくようになった。

不思議なもので、「考え方」は世界をガラリを変えてしまうのだ。
僕は、将来そういうことを研究したいのだけど...
今は適切な場所で、精一杯の努力をしようと思う。