2012年8月30日木曜日

魅力的に見える方法論に「疑問」を投げかける。

「プロフェッショナルマネージャー」という本の中に、とても大事なことが書いてありました。ご紹介します。この本は、ハロルド・ジェーニンさんというアーティストが書いた自身の経営の本です。非常に面白いし、今も同じような状況を繰り返しているように思います。

ーーー「プロフェッショナルマネージャー」からーーー
それでも、我々は性懲りもなく、錯覚の魔術を見にサーカスや劇場へ行くことをやめない。我々は常に何かの種類の妙薬、誇大なうたい文句と共に売り出される特効薬を求めてやまない。ビジネスの世界ですら、この事情は変わらず、そこではそうした妙薬は「新理論」と呼ばれる。というのは、我々は常に複雑な問題を解いてくれる単純な公式を求めているからである。こぎれいに放送され、魅力的なラベルが貼られているモノならほとんど何でも、効能への期待を込めて糖衣錠のように飲み下される。ビジネスの理論という者は、おおむねそうした者だ。・・・(中略)・・・そうした理論のどれ1つとして、うたい文句の通りには役に立たないことを知らされた。・・・(中略)・・・実際、職業人としての私の全生涯を通じて、公式の組み合わせや図表や経営理論によって、自分の会社を経営しようとした(いわんやそれで成功した)最高経営者には、未だかつて会ったことがない。趣味や服装の流行のように、ビジネスの理論は表れては消えていくものだ。・・・(中略)・・・(経営理論の)「達人」達は、バカでなければ、やがてそうした方式はビジネスの世界では、実験室の化学者や物理学者達が用いる不易の公式のように通用しないことを悟る。真実はただ、ビジネスは科学ではないというだけのことだ。
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これは、今、学生の世界に蔓延している一種の病気そのものに感じる部分が大きいのです。いや、もっと広く言えば社会人の多くも感染している病気なのかもしれません。もちろん、経営理論を始めとするモノゴトを勉強することが悪いとは思いませんが、その可能性を妄信しすぎている人があまりにも多い気がしています。多くのセミナーは、この病原菌の発信元を担っているんじゃないかなと。

最近出てきた「デザイン思考」にしても同じことが言えるかもしれません。あれは、成功した「企業」の方法論を、丸パクリして作り上げた一種の作業プロセスだと思っています。正直、僕も実は3年間このプロセスに関わってきたのでこんなことを言うのはまずいかもしれませんが、本当のことを伝える必要があると思って書いています。

「デザイン思考」は流行り始めて、認知されてもう3年経ちました。どこが成功したでしょうか。ある組織は2008年にあのプロセスを使う新しい合宿型プログラムを作り上げ、進めてきたが一向にうまくいく気配はなかった(一度だけ世界大会で優勝する案件を出した成果はある)。ですが、もしかしたらそれはまぐれかもしれません。多くのケースでは、ハロルド・ジェーンのいう「魅力的なラベル」に効能の期待を込めて糖衣錠のように飲み下していたのだと思います。

この本が書かれた当初、PPM(Product Portfolio Matrix)が世の中でもてはやされていたそうです。いや、今でもまだ利用している人は多いとは思いますが、ハロルドはこの方法は「とてもついていけない代物」だといっています。この方法を使ってしまうと、約20年に渡って築いてきた目標に向かって全力でチームとなって走る経営への信頼がなくなる。将来への成長の見込みを知らされた人がその部署で働きたいと思うかな?と彼は言っています。この指摘は正しくて、「何かを区切る」というのは「大事な何かを失う」ということです。モノとモノ、コトとコトの間には何か繋がりがある。それを1つだけ抜き出せば、大事な繋がりは切れてしまいます。

だから、1つ目の教訓は「方法論」を妄信しないことです。どんな方法論も「魅力的なラベル」がついていますが、その方法論のほとんどは「不易な公式」ではなく、流れる時代の中で確実に古びていく。そして多くの場合、当てはまらない公式なのだと思っておく方がいいということです。

もう1つ、この本では、経営戦略である「セオリーX」や「セオリーY」更には、日本式「セオリーZ」なども同じように使えないと彼は指摘しています。

ーーー引用ーーー
そんな風に言われると、バラ色の、静謐な、思いやりのある日本企業の職場に比べて、アメリカの事情は灰色で、寒々しく、ストレスに満ちあふれているように見える。実際はそれほど対照的ではないと私は思うが、たとえそうだとしても、われわれアメリカ人は、個人の自由と個人的機会の平等の伝統を、日本人の中に深く根を下ろした温情主義と謙譲と無私と交換したいと思うだろうか?また、仮にそうしたいと思ったとしても、できるだろうか? 我々とは甚だしく異なった日本人の生活様式は、何世紀にも渡って培われてきた文化に根ざすものであり、日本の近代産業の経営はその根深い文化の上に、他にはありようもない発展の仕方で形成されたものである・・・(中略)・・・アメリカで働く男女が、日本の家族主義的な会社のやり方を取り入れて、GMやITTや、あるいはベル・システム社の社歌を歌って一日の仕事を始める情景を思い描くことは私にはできない。セオリーXにせよ、セオリーYにせよ、Zにせよ、どんな理論も複雑な問題を一挙に解決してくれるということはあり得ない。
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要するに、ハロルドの指摘は、「文脈に埋め込まれたシンセシス」という大事な本質をついているんです。まず、日本の企業と、アメリカの企業では置かれている文化的な文脈が異なっていて、それぞれが、それぞれの文脈の元で動いている。だから、会社の戦略は、企業が違うだけで文化が異なりうまくいかないことは当たり前だと思った方がいいと指摘しているんです。これって、方法論にも拡張できると思いませんか? 方法論に関して拡張すれば、「デザイン思考」がd.school(カリフォルニア)でうまくいったからといって、日本でうまくいく保証はないし、ある大学でうまくいっても、他の大学ではうまくいかないことだって当たり前だけどある。デザイン思考が、ある文脈の中で機能するとしたら今、皆さんが勉強しているデザイン思考にはどんな価値があるのでしょうか?

だから、方法論というのは、どこまでいっても「ある事業」や「ある文化」、「ある価値観」の文脈に埋め込まれたシンセシスなのだと思った方がいいと思うんです。そして、大きな問題は「理論」や「方法論」というのは、全体を無理矢理に要素に分解して、個別の要素を文脈から引きはがしてああだこうだをこねくり回す。だから、方法論にそれほど価値はないということです。

セオリーなんていうのは、新しいものを創ったり、経営をするという「不確実」な世界の中では何の意味もありません。そんな風に、物事は動かない。だからこそ、僕らは「常に疑うこと」を忘れてはいけないんだと思います。「魅力的なラベル」に惹かれている人は、その魅力のあまり方法論を信じきり方法論の勉強に走ってしまうでしょう。もう一度、足下を見つめなおしてください。なんで「その方法論」が必要なのですか。自分自身の文脈の中で「その方法論」にどんな意味があるでしょう?。方法論はあくまでツールです。そして不確実なものへの対応力にはすこぶる弱いものであるということを念頭に置いて方法論とは向き合う方がいいかもしれませんね。

プロフェッショナルマネージャー

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