2012年11月27日火曜日

たった1つの決断。


私たちがある場所で、あるときに下した決断は、その後の未来を大きく変えてしまう。それは、最初は小さな一歩だ、本当に目に見えないぐらい小さな、小さな変化だ。でも、長い目で見れば、大きな変化の起点になっていることがある。

僕にとって、今思えば大きな決断をしたのは、2012年2月23日だった。2人の社会人から、GOB-Labという組織の代表を務めないかと言われたときに、なにかピンと来るものを感じて、二つ返事で「はい、やります」と言った瞬間だったように思う。

最初、僕は「やってみるか」ぐらいだった。そして、何か変わることもなく、小さなカフェぐらい開けるようになればいいんじゃないかと思っていたというのが正直なところ。日本を変えようとか色々話していたが、全く実感も湧かなかった。でもその瞬間、確かに僕と社会の未来の形は変わっていたんだと思う。もちろんそのときは何も気づいてはいない。

今その決断から、9ヶ月経ってみて、見えている世界は全く違う。知らない間に、未来を創ろう(いや、創れる)と思っている自分がいたりする。そして、カフェぐらいと思って東京から始まったこの活動は、意識しないうちに大阪、そして名古屋へ広がって、想いを様々な地理的距離さえ越えて共有している。あの決断をして、僕はここに立って40人の素晴らしい仲間と、40人の未来の一部を担うようになっている。そして、大切なことはそれはたった1つの選択から始まったということだ。

もし、この機会に恵まれていなかったら、きっと僕は今頃「普通の大学生」に戻ってしまっていただろう。普通に授業を受け、単位を取って、卒業して、会社に就職してと真っ当な道を歩んでいたんだと思う。でも、運命はそういう風にはさせてくれなかった。目の前に来た選択をただ取って、覚悟を決めただけで、こんなに描き出す世界は変わるんだと実感した。

もし、みんなが何かを目の前にして、それが例えイベントであれ、留学のチャンスであれ、どんなものであれ、その選択を見たときに「どう決断するのか」が未来を決めると僕は今だから断言できる。そうやって、小さな決定が積み重なって未来ができているんだと思ったとき、今いる一瞬一瞬がどれだけ大切なことなのかを再認識する。

未来は予想を遥かに越えていく。
自分次第で、想像したこともない素晴らしい場所変わる。
そしてそれは、あなたが今から行うたった1つの選択から生まれるんだ。

2012年9月19日水曜日

「何故を問い続けること」。-ミッションへ疑問を投げかけられるか?-

夜です。涼しいですね。さて、今日も感じたことをまとめておこうと思います。テーマの通り「何故?」という質問へ立ち返ることの重要性です。とは言いつつも、この話を通して、僕自身の性格についても言及しておきたいです。今の僕を見ている人は「超人的」だとか、「人とは違う考え方」をする変な人で、「リスクを恐れない」タイプだと勘違いしている人も居るようなので、むしろ僕が地方から上京してきた一般的な学生であるということを感じつつ、僕の変化に少しでも触れて頂ければ嬉しいです。そして、皆さんの参考になれば喜ばしい限りです。

前回も大学1年生でしたが、今回も大学の初期の頃に話を戻します。タイムトラベルしましょう。
僕が大学2年生の頃なので、2010年。僕は「KBC Innovation Challenge」というイベントの企画・設計に取り組んでしました。しかしながら、この企画「特許、即ち知的財産からどのようにしてアイデアを生み出す」という使命を負って創られたイベントです。当時の僕に取っては、特になじみはない分野であったのですが、理工学部ということ、そして技術をある程度(ほんの少し)理解できることから担当していました。

今回は、重要な教訓を引き出すために、このイベントにご協力頂いた皆様に対して失礼な部分が多々あるのですが、敬意を表しつつ、僕の当時の状況を「今の視点」で振り返ってみたいと思います。ただ、注釈ではないですが、1つだけ断っておきます。このイベントは僕が多くの人に多大なる迷惑をかけましたし、結果として失敗の部分が多々あったことを認めた上で、僕自身の今を形成するとても重要な一部であること、そして昔の僕から今の僕に飛躍的にレベルアップをさせてもらった思い入れのある企画であるということをまずはお伝えしておきます。

さて、この当時の僕は「新しいこと」がしたいという想いは少しあったのですが、一方で踏み出すのが怖いという感情も心のどこかに抱いていました。というよりも、とても怖かったです。いや、むしろ一人だったら何もできないようなビビリの大学生だったと言っても過言ではありません。ただし、ある程度思考力だけはありました。なので、リスクに対して人一倍敏感な人だったと思ってください。

そんな僕が、何かの企画のトップになって責任を取ってまでやりたいと思うでしょうか?いいえ、思いませんよね。達成する自分より、目の前にある困難に目がいくタイプの僕に取ってはとっても難しいことです。前回有名になりたい自分についても書きましたが、この当時もこの想いは健在です。ですが、リスクの方がよく見えるので怖いんですよね。

ですが、2010年3月のことです。代表が変わり、新しい組織体制が組まれました。そして既存の企画に加えて、新企画が2つ立ち上がります。この時偶然1つの企画の企画長のポストが空いており、しかもその企画は「過去にない企画」でした。そのポジションは一度リーダーを決める選挙をしても空席で人がいないという状況だったんです。この時僕はというと、次の年は「別の企画のサポート」をして過ごそうと決めていたのですが、そんな僕を後押ししてくれた人が居ます。当時のKBC実行委員会の実行委員長だった人です。名前は出していいのか分からないので控えますが、仮に、藤井さんとしましょう。

彼に後押しを受けて、実は企画長になりました。煽てられれば、基本何でもやってしまうようなタイプであるということと、意外に説明を聞けば面白そうかもしれないと思って、引き受けてしまうという何ともリスクを恐れていたわりには、リスク管理のできない自分だったわけですが、そんなこんなで企画長です。

そして、イベント開催は11月、企画開始は5月ということで、約5ヶ月の間企画をしていきます。そしてこの中で、僕はたくさんのコトを学んでいくんですが、枚挙に暇がないので大半は省きますが、「問いかけの重要性」だとか、「会議のファシリテーション」とか、「ミッションの意義」とか、「感謝を伝える重要性」とか。この頃に、学びました。ここで学んだことは、いつかどこかでまた感じたときにブログにまとめます。

その中でも特に、「組織のミッション」と「自分のミッション」に従うのかということについて、今になってとても大事だと感じていることがあります。この当時の実行委員長の口癖は「組織のミッションに、何が正しいのかなんていうことは存在しない。自己解釈を加えて、自分なりに進まなくてはならない」ということだったと記憶しています。違っていたら申し訳ないですが、大まかにはそういうことを言っていました。そして、これがいかに難しい課題であるのかもよく理解していましたし、これはミッションを実行委員長が解釈せず相手に解釈させているだけの、責任放棄なのではないかなんて思ったこともありました。

しかし今になって、これだけ厳しく言われてきた、そして自分なりに諦めずに解釈を続けることの意味が分かるんです。もし、実行委員長が「これが答えだよ」と言って、それに従って進んでいくことは非常に簡単です。そして、容易なことですし、ある意味「忠実なる僕」であることを意味しています。しかしながら、この方法では本当の相手の能力を引き出すことができないのではないかということ、そして、組織を引っ張っていく人を育成できないということを当時の実行委員長は知っていたのだと思います。

だからこそ、「自分の価値観で解釈させ、その上で自分で進むべき方向を決めて、組織をより素晴らしい方向に導け」という意味を込めて、僕らにあの当時問いかけていたんだと。そしてその思想は間違っていなかったと今になって確証を持って言えます。そして、その自分なりの解釈を加えることで「組織のミッション」は自分の中に組み込まれます。そして「自分を組織の中に組み込むこと」ができるようになるのです。これによって、私たちは「新しい自分なりの視点」を組織に持ち込み、ミッションを達成するために「独自」の視点を使って、新しいプロジェクトを立ち上げることができるようになったり、既存のモノに縛られることを抜け出し、新たな成長のチカラを手に入れることができるのだと思っています。

つまり、僕らは「何故、自分がやるのか」ということに対して思考し続けることを辞めてはいけないんです。どんな組織にいても、どんなプロジェクトにアサインされていても、ミッションのまま、リーダーの言うままに動いていては、そのプロジェクトが成功しても、その先はありません。そして、リーダーもミッションも万能ではない。特にこの時代では、周囲の環境が目まぐるしく変わり、全てを把握することなんて到底できません。そんな中で、チームには「多様性」が求められると言いますが、多様性とはなんでしょうか?

僕はこの答えは「ミッションに対して、自分なり(独自視点)による解釈を行い、組織に自らのDNAを組み込み、一体となって進んでいけるような人材が多いこと」を指していると思うのです。専門分野の広がりというのがダイバーシティーだというのは馬鹿げています。それ以外にも山ほど「多様性」というものは解釈があります。そもそも生きてきた背景が違うのだから。

脱線しましたが、少なからず僕らは「思考」を辞めてはいけません。特にプロジェクトや組織の「ミッション,目指すべき場所やモノ」は哲学であり、それについて存在意義を問うことは非常に苦しいことですし、時に崩壊を招きます。ですが、いやだからこそ価値があり、本当に必要なものを生み出すためには、常に「目指すべき場所」へ「何故」を問いかけ続けなくてはなりません。そして同時に、プロジェクトやイベントというのは「ミッション」を達成する手段であるということにも意識を向けてみましょう。

ここ数年で、「手段」の「目的」化は進み続けています。ミッションに共感できるなら「何故そのプロジェクトなのか」、何故「その方法をを取るのか」問いかけてみましょう。そして、自分は違うと思うというなら、そこに根拠がなくても違和感があるなら、それが正しいんです。むしろ、馬鹿正直に合理的に否定できないから、やるしかないなんていうことはないのです。潔く「おかしい」と思えば辞めてしまえば良いんです。
一方で、もし違和感があっても「これは自分なりに筋が通る」と思うなら、がむしゃらにやってみれば良いと思います。何故の問いかけを忘れずに。そうすれば少しずつ違和感の正体が明らかになるし、そうしながら進めていけば良いんです。そういう勘は経験ですが9割ぐらいはずれません。

長くなりましたし、支離滅裂な文章を書いてしまったんですけど、僕らは「問いかけ」を続けましょう。その先にしか実現したい未来なんて存在しないんじゃないかなんて思うようになってきています。盲目的になるのをやめて、何となく過ごしていれば良いという日常を去り、新しいモノを生み出すために、僕らは「問いかけ」を続けて、行動を起こしてみましょう。ちょっとだけ、日常が違って見えるかもしれませんよ。

KBC実行委員会という組織に、自分に育ててくれた感謝を込めて。
「ありがとう」と最後に書いておきます。

2012年9月17日月曜日

苦手意識は克服できるのか?-プレゼンテーションを例に-

なんか、急に書きたくなったエントリーがあったので、書いてみます。「苦手意識」を克服するためにどうすれば良いのかということです。今、ふと昔を振り返って思えば、「苦手」なモノが山ほどありました。もちろん、今もあります。でも、今日は少し昔の話をしてみようと思います。

2009年、僕は若気の至りなのか、「慶應義塾大学」に入学しました。入学したての頃、高校を卒業して上京して、一旗揚げてやろうなんて想いもありました。そして、ココロのどこかでは「ちょっと、有名になりたい」という欲もありました。あとは、何でも卒なくこなす系の人間だったようで、無駄に全てのことでできないことはないという自信があったんです。

でも、大事なことに気づいたのです。僕が所属していた組織では、初対面の人にあったり、チームで仕事をしたりするのですが、どうもその時に感じたのは、人前に立ったり、人と話したりするのが僕は「とても苦手だ」ということです。特に「女の子」と話すのは苦手だなぁと思っていました。こんなに思考回路が分からない人がいるとは!ぐらいの気持ちでした。

ここで、ジレンマが起こります。あの頃、僕が想定していた「有名人」というのは、「話すのがうまい」人が最低条件として要素として入っていたし、誰との会話も卒なくこなしてしまうような人でした。そう思うと、あれ、僕目指す方向性間違ってるのかな?なんて思うようになって、自信をなくしつつ、どうすれば良いのか考えてみました。

1.諦める
これは、ないなと思いました。いやいや、だって「若気の至り」の1年生・2年生の頃なわけですから、有名になりたい、しゃべるのがうまい人になりたいという欲は抑えきれません。夢は諦めたくない←ちいせぇですねw

2.誰かに教えを請う
これも、ないなと思っていました。誰かに教えを請うほど、あの頃の僕に取って恥ずかしいものはありませんでした。何でも卒なくこなす僕が、誰かに教えを請うと、僕以上の人が存在することを認めてしまうことになります。だから、これもないな(今でも、教えを請うのは抵抗感がありますけど、昔ほどじゃありません)と。

3.本を読む
本を読むのがとっても嫌いな僕なので、基本、本を読むと言う選択肢もない。

4.新しい方法論を編み出す
つまり、行き着くのはオリジナルの修得方法をやって、身につけることでした。そして、この時もう1つ大事なことに気づきます。僕には「話す内容がない」ということです。多くの人が同じように、機会をもらわない限り「話す内容」は考えようにも、考えられません。そこで、まずは自分の実感が湧く範囲で話すことになってもおかしくない場所はどこかを考えて、何か創ってみるのもいいのですが、それは現実の範囲に収まり過ぎです。なので、3年後、僕はこのステージに立って話がしたいという場所を考えてみましょう。大それた場所でも構わないでしょう。最大規模のコンテストのオープニングトークとか、TEDxのイベントとか、何かのイベントのkeynoteスピーチとか。そういう場所を妄想で自分が立っていると信じ込むんです。次は話す内容ですね。

さて、僕なんかの少ない脳みそでは到底素晴らしいモノを生み出すことはできないのは当たり前です。そこで僕は、TEDの舞台に自分が立つことを想定して、練習をするコトにしました。「TED-Technology Entertainment Design-」プレゼンテーションのうまさ、内容のどちらをとっても一級品です。そこで、この中で気に入ったものを「丸パクリ」できるぐらいに何度も何度も、練習したんです。自分があのステージに立っていることを妄想して、目の前には1000人以上の観客が居て、ステージに立っているのは自分です。

そう、妄想して気づいている人も居るかもしれませんが、すごく心地の良い空間です。1000人が自分のスピーチに対して期待しているんです。だから、最高のスピーチを提供しないといけません。この感じを自分の中に溶け込ませていきます。そして、練習場所は「駅」から「自宅」までの帰り道でした。25分ぐらいあるのですが、この時間の長さっていうのはまさに10分のプレゼンを2回やれる時間です。なので、ここで夜道を歩きながら、誰か居ると恥ずかしいのですが、練習します。

そして、後から気づいたんですけど、このスピーチを丸パクリできるぐらいに覚えているということは、そこで話している内容が自分の頭の中に入って、知識・智慧にもなるということです。これは驚きましたが、一石二鳥です。

すると、知らない間に丸パクリレベルのスピーチができるので、大抵の予定調和なプレゼンテーションは軽くこなせるようになります。(忘れないでください、僕は人前で話すことに素晴らしいぐらいネガティブで、苦手意識がある人です。)

そのあとに「本」を読んだりするんですけど、その「本の内容」は自分がやってきたスピーチを体系化するつまり、脳内に覚えさせる作業に変わるので、スラスラ読めますし、頭の中に浸透しやすいです。後は場数を踏めばOKです。

と、なんか僕がやってきて今「得意」みたいに聞こえますが、もう一度いいます。
僕は人前で話すのが苦手です。
いくらやっても「苦手」意識は絶対に消えません。
うまくできたって実感したこともないし、すんごい緊張するし。
だから、なんとかしなきゃ!ということで、TED見て勉強したり、色々本読んだりしたんです。
やっていくうちに人並みぐらいにはできるようにはなったのかもしれないけど、
でもやっぱり「苦手」意識は強いんです。

でも、最後に分かったことは、「苦手分野も、やれば人並み以上にできることだってある」ということです。だから、とりあえず苦手だとか、自信ないと思う人はこっそり一人でコツコツ練習してみてはどうでしょう。諦めるのはまだ早いかもしれません。「苦手意識」は克服できないかもしれませんが、「できない」の壁は越えることができるかもしれないのです。「どうなりたいか」の理想を描きましょう。そうすれば、苦手意識は消えませんが、知らないうちに「すこーしの自信」と「自分は納得できないけど、人に見せられるもの」は創ることができるんじゃないかなぁと。


なので結論:苦手意識は消えない。ただし、できるようになることもある!

2012年9月1日土曜日

理想のチームって?

久々に2日続けて書いてみようと思います。
一昨日、「Next Leaders Cafe」というイベントに参加してきました。
基本はダイアログで、毎回学生30名前後が集まって開催されています。

ここに来る学生は面白くて、なんだろう、
なんというか独自性が高いというか
キャラが濃い感じがするんですよね。
だから、お気に入りのイベントの1つです。

で、今回のテーマは「理想のチーム」ってなんだろう?
っていうことだったんですが、これは難しいテーマ持ってきたなぁという印象を受けてました。

でも、このテーマは僕の中では色々チーム組成に失敗してきた過去があるので
その経験を話そうというのと、みんなはどう思ってるんだろう?
っていうのを聞きたいなぁと思って参加したんです。

詳しい内容は省くんですけど、一番印象的だったのは
最も素晴らしいチームには「ルール存在しない」ということだったかなと。

みんなは「役割分担ができていること」っていうんだけど、
それをひっくり返したものが、最高のチームっていうのは
面白い気づきだなぁと思っていました。

でも、とても印象的だったのは、やっぱりみんな僕と同じように悩んでるんだってこと。
そういうところは一緒で、物理的距離とか、コミュニケーション方法とか色んな部分で
深く悩んでるなぁという印象です。

あとは、意外とみんな「ミッションとか、気にしてないんだ」なぁってこと。
僕は、学生団体で大事にしてきたものが「ミッション」と「ビジョン」だったからかもしれないけど、
組織の「ミッション」とか「ビジョン」が共有できていることをあげる人が
少なかったのが印象的だったんですよね。

今年に入って、色んな組織に関わらせてもらっているけど、
一番印象的なのは、「ミッション」と「ビジョン」がない組織があまりにも多いこと。
名前は出さないけど、歴史ある組織でも「ミッション」を貫き続ける組織は存在してないなと。
だから、僕は過去に自分がいたミッションこそ全てっていう信念を持ってる
KBCっていう組織みたいなのは当たり前だと思ったけど、
意外に、当たり前じゃないんだということを改めて認識した会でした。

でも、もう少しミッションとビジョンについては書いてみたい。
ミッションやビジョンを大事にする文化っていうのは、
実は比較的新しくて古い気がしているんですよ。

いや正確には、戦後間もなくはあったはず。日本がボロボロになって、
復興していくときにどんな日本にしたいかという議論は間違いなく起こっていたはずだし、
そして、その原動力で様々な物事がすごいスピードで動いたんじゃないかと思うんですね。
その時代を生きていないので何とも言えないんだけど。

その後、状況は一変し、戦後の高度経済成長は「ミッション」や「ビジョン」型の経営というよりも
いかにして収益を上げるか。拡大するのかということに焦点が当たっていて、
その過程でたくさんの「社会的存在意義」みたいなのはどんどん消えていった。

それが、多分2000年後半ぐらいまで続いて来てた。
でも、今になって東日本大震災や、環境問題や、経済的な問題があって、
今のままじゃダメだってなってるんですよね。

だからそこで、新しい日本の未来を描こうってなったんだけど、
ミッションを大事にする世界で生きてきてない人が多過ぎて、
結局、社会の未来を見通すことができなくなってるような気がする。

その原因の大きな理由の1つが「責任転嫁の姿勢」にあると思うんですよね。
こういう話をすると絶対「教育の責任」だという人も出てくるし、
「家庭の責任」だという人も出てくるんですよね。
更に、いつも結論は出なくて、責任転嫁をし続けて問題自体が浮いたまま残るんです。
結局、みんな今の状況が良ければ、自分が頑張ったお陰だって言われたいし、
今の状況が悪ければ、自分には何の責任もない。
僕は頑張ったって言いたいんだと思うんですよ。

だって、不良品が出たらどの部署の責任だ?って言う話になって、
そして、特定の部署を総攻撃して、その部署が全責任を追って解決する。
でも、また同じことが起こる。
それは、「起こった問題」はあいつのせいだと言った結果ですよね。
そうやって負のスパイラルが回転するんです。

つまり、僕らは普段生きながら「過去」しか見れていないんですよね。
過去のことに、とてもうるさいんです。まずは、自分が助かる術を考えてしまう。
「責任転嫁」っていうのは、「過去へのベクトル」です。

じゃあ、チームの軸を「未来へ向ける」ためにはどうすればいいんでしょう?
答えは簡単でした。でも、覚悟がないとできません。
「自分で全て責任を取る」という姿勢を貫くことです。
問題が起これば、全てを自分ごとのように捉えられるのか。
他の部署の進行が遅ければ、その部署をココロからサポートできるか。
自分の部署が遅ければ、自分に何が足りないのか明らかにできるか。
そして、足りない「自分」を受け止められるか。
それだけなんですよね。

「新しいことを始めるのが怖い」理由ってそこにあるんですよ。
言い出しっぺ、創始者は絶対に責任を取らないといけないんです。
それって、とっても怖いことですよね。
でも、未来へ向かうためには、「自分で責任を取らないといけない」んです。
そして、それが「ミッション」を創る行為そのものであるし、
「ミッション」を貫く行為そのものなんですよ。

理想のチームとはっていう問いの答えになるかは分かりませんが、
少なくとも、組織がこれまで、そしてこれから行うことへ(つまりミッションへ)
責任をすべて「自分」で負う覚悟がある人間が集まったチームっていうのが
最高のチームなんだと思います。

つまり、誰かがうまくいかないと自分の責任になります。
そこに相手・自分という概念はないかもしれません。
チームという1つのまとまりが存在するだけになるのかも。

そうなれば、役割分担は自然に決まりますね。
いや、正確には文脈によってはいかようにも自分の役割を変えることができます。
ポジションは流動的で、必要なことを必要な人間が行い、そして行った人間は祝福される。
こういう組織は進むスピードが違い、周りに集まってくる人も違う
そして、チームが大きくなって、組織になり文化が築かれていくんです。
そういう組織は、どんな大きさになっても強く、そして未来を見ているからこそ創造的です。
そして、新しいことを始める人を後押しし、リスクの取り方を教える組織になるでしょう。

何とも取り留めのない文章になっちゃいましたけど。
これが、理想のチームとは?っていうのに対する自分なりの答えですね
そして、僕は今いるGOBをそういう人が集まっている場所だと信じていますし、
これからも信じてやっていくつもりです。

2012年8月30日木曜日

魅力的に見える方法論に「疑問」を投げかける。

「プロフェッショナルマネージャー」という本の中に、とても大事なことが書いてありました。ご紹介します。この本は、ハロルド・ジェーニンさんというアーティストが書いた自身の経営の本です。非常に面白いし、今も同じような状況を繰り返しているように思います。

ーーー「プロフェッショナルマネージャー」からーーー
それでも、我々は性懲りもなく、錯覚の魔術を見にサーカスや劇場へ行くことをやめない。我々は常に何かの種類の妙薬、誇大なうたい文句と共に売り出される特効薬を求めてやまない。ビジネスの世界ですら、この事情は変わらず、そこではそうした妙薬は「新理論」と呼ばれる。というのは、我々は常に複雑な問題を解いてくれる単純な公式を求めているからである。こぎれいに放送され、魅力的なラベルが貼られているモノならほとんど何でも、効能への期待を込めて糖衣錠のように飲み下される。ビジネスの理論という者は、おおむねそうした者だ。・・・(中略)・・・そうした理論のどれ1つとして、うたい文句の通りには役に立たないことを知らされた。・・・(中略)・・・実際、職業人としての私の全生涯を通じて、公式の組み合わせや図表や経営理論によって、自分の会社を経営しようとした(いわんやそれで成功した)最高経営者には、未だかつて会ったことがない。趣味や服装の流行のように、ビジネスの理論は表れては消えていくものだ。・・・(中略)・・・(経営理論の)「達人」達は、バカでなければ、やがてそうした方式はビジネスの世界では、実験室の化学者や物理学者達が用いる不易の公式のように通用しないことを悟る。真実はただ、ビジネスは科学ではないというだけのことだ。
ーーー

これは、今、学生の世界に蔓延している一種の病気そのものに感じる部分が大きいのです。いや、もっと広く言えば社会人の多くも感染している病気なのかもしれません。もちろん、経営理論を始めとするモノゴトを勉強することが悪いとは思いませんが、その可能性を妄信しすぎている人があまりにも多い気がしています。多くのセミナーは、この病原菌の発信元を担っているんじゃないかなと。

最近出てきた「デザイン思考」にしても同じことが言えるかもしれません。あれは、成功した「企業」の方法論を、丸パクリして作り上げた一種の作業プロセスだと思っています。正直、僕も実は3年間このプロセスに関わってきたのでこんなことを言うのはまずいかもしれませんが、本当のことを伝える必要があると思って書いています。

「デザイン思考」は流行り始めて、認知されてもう3年経ちました。どこが成功したでしょうか。ある組織は2008年にあのプロセスを使う新しい合宿型プログラムを作り上げ、進めてきたが一向にうまくいく気配はなかった(一度だけ世界大会で優勝する案件を出した成果はある)。ですが、もしかしたらそれはまぐれかもしれません。多くのケースでは、ハロルド・ジェーンのいう「魅力的なラベル」に効能の期待を込めて糖衣錠のように飲み下していたのだと思います。

この本が書かれた当初、PPM(Product Portfolio Matrix)が世の中でもてはやされていたそうです。いや、今でもまだ利用している人は多いとは思いますが、ハロルドはこの方法は「とてもついていけない代物」だといっています。この方法を使ってしまうと、約20年に渡って築いてきた目標に向かって全力でチームとなって走る経営への信頼がなくなる。将来への成長の見込みを知らされた人がその部署で働きたいと思うかな?と彼は言っています。この指摘は正しくて、「何かを区切る」というのは「大事な何かを失う」ということです。モノとモノ、コトとコトの間には何か繋がりがある。それを1つだけ抜き出せば、大事な繋がりは切れてしまいます。

だから、1つ目の教訓は「方法論」を妄信しないことです。どんな方法論も「魅力的なラベル」がついていますが、その方法論のほとんどは「不易な公式」ではなく、流れる時代の中で確実に古びていく。そして多くの場合、当てはまらない公式なのだと思っておく方がいいということです。

もう1つ、この本では、経営戦略である「セオリーX」や「セオリーY」更には、日本式「セオリーZ」なども同じように使えないと彼は指摘しています。

ーーー引用ーーー
そんな風に言われると、バラ色の、静謐な、思いやりのある日本企業の職場に比べて、アメリカの事情は灰色で、寒々しく、ストレスに満ちあふれているように見える。実際はそれほど対照的ではないと私は思うが、たとえそうだとしても、われわれアメリカ人は、個人の自由と個人的機会の平等の伝統を、日本人の中に深く根を下ろした温情主義と謙譲と無私と交換したいと思うだろうか?また、仮にそうしたいと思ったとしても、できるだろうか? 我々とは甚だしく異なった日本人の生活様式は、何世紀にも渡って培われてきた文化に根ざすものであり、日本の近代産業の経営はその根深い文化の上に、他にはありようもない発展の仕方で形成されたものである・・・(中略)・・・アメリカで働く男女が、日本の家族主義的な会社のやり方を取り入れて、GMやITTや、あるいはベル・システム社の社歌を歌って一日の仕事を始める情景を思い描くことは私にはできない。セオリーXにせよ、セオリーYにせよ、Zにせよ、どんな理論も複雑な問題を一挙に解決してくれるということはあり得ない。
ーーー

要するに、ハロルドの指摘は、「文脈に埋め込まれたシンセシス」という大事な本質をついているんです。まず、日本の企業と、アメリカの企業では置かれている文化的な文脈が異なっていて、それぞれが、それぞれの文脈の元で動いている。だから、会社の戦略は、企業が違うだけで文化が異なりうまくいかないことは当たり前だと思った方がいいと指摘しているんです。これって、方法論にも拡張できると思いませんか? 方法論に関して拡張すれば、「デザイン思考」がd.school(カリフォルニア)でうまくいったからといって、日本でうまくいく保証はないし、ある大学でうまくいっても、他の大学ではうまくいかないことだって当たり前だけどある。デザイン思考が、ある文脈の中で機能するとしたら今、皆さんが勉強しているデザイン思考にはどんな価値があるのでしょうか?

だから、方法論というのは、どこまでいっても「ある事業」や「ある文化」、「ある価値観」の文脈に埋め込まれたシンセシスなのだと思った方がいいと思うんです。そして、大きな問題は「理論」や「方法論」というのは、全体を無理矢理に要素に分解して、個別の要素を文脈から引きはがしてああだこうだをこねくり回す。だから、方法論にそれほど価値はないということです。

セオリーなんていうのは、新しいものを創ったり、経営をするという「不確実」な世界の中では何の意味もありません。そんな風に、物事は動かない。だからこそ、僕らは「常に疑うこと」を忘れてはいけないんだと思います。「魅力的なラベル」に惹かれている人は、その魅力のあまり方法論を信じきり方法論の勉強に走ってしまうでしょう。もう一度、足下を見つめなおしてください。なんで「その方法論」が必要なのですか。自分自身の文脈の中で「その方法論」にどんな意味があるでしょう?。方法論はあくまでツールです。そして不確実なものへの対応力にはすこぶる弱いものであるということを念頭に置いて方法論とは向き合う方がいいかもしれませんね。

プロフェッショナルマネージャー

2012年8月20日月曜日

創造的かつ効率的な毎日を送るためにやるべきたった2つのこと

 大学3年生になって、春休み以来のブログかもしれないのですが、昨日友人と話した一部始終をまとめておこうかと。話の相手は社会人です。ただし、学生にも言えることなんじゃないかなと思うんです。だから書いておこうかと。そして、今から言うことは本当に「単純」なことだということです。とっても簡単です。明日からでも実行できます、意志さえあれば。

話の中で出てきた、2つのことのまず1つ目は、「飲み会を徹底して行かないようにする」でした。大学に入れば、サークル、クラス、高校同期、就活飲みなどたくさん飲み会がありますよね。この飲み会に行かないようにするということでした。そうすると、時間がたくさんできます。金も浪費しません。でも皆さんは「ネットワーク」がなくなるとか色んな言いわけをするわけですが、それって本当にネットワークと呼べるもの創ってるのかっていう話と、話して本当に「意味合った!」って思えますかっていう話ですよね。ココとっても大事ですよ。自分で「価値」を「正当化」するんじゃなくて「評価」するということを厳しくする必要があります。

酒は、人を陽気にするとか、発想を豊かにして本音で話すことを許してくれる。なんていうのは嘘で、実は時間の無駄なことが多々あります。なので、基本は「行かない」。ただ、本当に行きたい飲み会だけ行くということ。
でも、ここからは僕の個人的視点ですが、自分が「価値があった」と評価できる飲み会って「〇〇クラスター」みたいなこと叫んでる人が山ほど集まる交流会とかじゃなくて、たぶんセレクトされた人で集まって飲む場所なんだと思います。気の知れた人と、しっぽり深い話しましょうよ。あとは、何か始めたりすれば、良質なネットワークができるし、飲みたい!と思う人も多くなってくると思います。そういう中で飲み会をして距離を縮めるっていうことはとても大事なことだと思いました

そして、2つ目は「遊ぶ時間」をなくすでした。話していた友人は、例えば彼女と遊べば、それだけ「お金」と「時間」を「短期利益」へ投資するということになるわけだし、時として短期なのにリターンが0ということもよくあると。なので、遊ぶ時間をなくしたということでした。これは特に社会人だからという理由もあって、社会人の方は普段会社に朝8時〜夜5時までは拘束されますね。そして、その後会社によっては毎日、各日のペースで飲み会するわけですから、その日帰ればすぐ寝るしかないし、次の日も休まらないで調子が悪いまま進むことになります。すると、生産性という観点からは最悪なのだとか。更に遊んでしまうと、休日を潰してしまうので好きなコトや、自分がココロからやるべきだと思ってることができずに平日に戻り、仕事を毎日することになります。つまり、1と2を合わせると自分の時間が全くなく常に不毛だと思いながらも、毎日を送ると言う悪循環に陥ってしまうということだったんです。

「時間を考えて使う」というのは絶対に必要なことです。自分のタイムマネージメントの舵は自分で握っていたいものですよね。無駄だなと思ったら、すぐに生活習慣を変えたり、環境を変えたりしてみましょう。きっと素敵な毎日に少しでも近づくんじゃないですかね?

あと、ここに書いたことは少し過激に書いている部分もあるので、気分を悪くなさらないでください。彼女といる時間がとても大事で、自分に取って価値ある時間ならそれは素敵なことですから。要は、必要か必要じゃないかに「シビア」になって自分なりに「出来事」へ正当な評価を下せるようになるということ。これが大事だということを伝えたかったんです。

クリエイティブを加速させる条件


多くの組織がデザイン思考を詳細まで詰めずにとりあえずやってみるという姿勢でワークショップを開催しまくっていますが焦る必要はないように思います。あれは完全にプロトタイプを分かっていない人のやることだと思うのです。

正確には、デザイン思考がそれ自体がプロセスであると呼ばれる所以です。外部環境が変われば、当たり前のように「デザイン思考」の要件自体も変化します。Tinaの指摘のようにクリエイティブのエンジンというのは常に外部からの環境を受けているのです。

現在の外部環境の変化は、コトワークショップにおいては激しさを増しています。確実に増えていくワークショップコンテンツの中でいかに早く高いクオリティーと繊細さを持ったワークショップを素早く創っていくのかということがこれから競われていくはずです。この競争の中では確実に、オリジナリティーが求められ、そしてクオリティーをいち早く高める”力”が必要です。それは個人の能力に依存する部分と、個々それぞれのクリエイティビティーを加速させるその習慣を組織に根付かせる必要があると思います。

その1つの方法は、内部でプロトタイプを繰り替えす「submarine launch」というモデルですね。これの効果的な点は初期の段階で「顧客との関係」にそれほどチカラを取られずにコンテンツのクオリティーを高めていける点です。余力がない時には無理に手を広げずにクオリティーを高め、フィードバックを早く回転させる仕組みが必要です。

あとは、デザイン思考のワークショップを創っている大抵の人に共通するのは、多分野の知識を全く取り込んでいないことです。デザインの基本が「人」であるなら、それに関わる学問領域のカバーはある程度求められるのは必然だと思うのですが、「場」の理論だけを追求したり、「デザイン」思考の論文だけを読んだり、もっと酷くなれば「手法だけ」を勉強する。これで、新しいものは生まれるんでしょうか?答えはお分かりの通り「NO」ですね。

コラボレーションの起こし方の基本は、「場に多様性を持たせること」であって、「多様なステークホルダーの人材を集める」ことではありません。小学生から、社会人まで集めるというのは「ステークホルダー」を集めたということに過ぎず、僕らが集めなくてはならないのは、1つの突き抜ける「才能」と、その周辺に広がる多様な領域をカバーし、結びつける能力に長けた人物だと思うのです。そのような人材が揃うことが「クリエイティブ」のエンジンを動かす最低要件です。

だから、というわけではありませんが日本のほとんどの組織はイノベーションはそもそも起こせないと思っています(理由はこれ1つではないという意味で)。そして、僕らが創ったあるチームの圧倒的な強さは、この「クリエイティブ」の領域を支配できるようなメンバーを集めていることだと思うのです。組織の最高のチカラとは「そこに存在する」人と価値観、そして習慣です。

2012年4月30日月曜日

【EVENT】Design Thinking Crash Workshop#2

遂にデザイン思考のCrash Workshop Japanが関西へ上陸します!まさか第2回目が関西で開催させて頂けることになるとは非常に嬉しい限りです。地元である関西で、こういうワークショップを開催させて頂けるのはワクワクです。そこで、今回はイベントの告知とデザイン思考と僕というテーマでブログを書きます。(イベントの情報は最後)

via d.school
【Crash Workshopとは】
Stanford d.schoolが彼らの創ったDesign Thinkingを外部(世界)へ発信し、世界中の人に体験してもらうためにオンラインで創った80分のワークショップです。(映像も公開されています:http://dschool.stanford.edu/dgift/



【Design Thinking】
デザイン思考とはその名の通り、デザインをすることです。ですが、皆さんが知っているような「絵を描く」や「形を…」をというようなデザインとは違う部分があります。それは、「人の経験」をベースにしてデザインをするという点で大きく異なります。つまり、天才的なデザイナーが自分の感性だけを頼りに革新的なものを創るというわけではありません。

具体的にデザイン思考では大まかに以下5つのプロセスを用います。この最初のEmpathy=つまり共感するというところから始まります。つまり、人があるときに感じていた”めんどくさい”とか、”こうあってほしかったなぁ”というのをインタビューをしながら引き出していきます。そのあと、Define=問題定義をします。彼が抱える本当の問題は何でしょうか?というところを詰めていく作業です。そのあと、問題を解決アイデアを出し、それを”すぐに実際の形あるもの”=プロトタイプ(試作品)に落としこみ、ユーザーへテストをします。
このような流れを経ることで、ユーザー自身が本当に欲していたサービス・製品を素早く・的確に作り上げることができるというわけです。このワークショップでは実際にこれを皆さんに体験してもらうということになります。


(※実はもっと大きなスケールで大事な話も、細かい話も、もっといえば何故今この思考が必要なのかなど、たくさん書かないといけないことはありますが、ここでは皆さんにまずはどんなことをしているのかを伝える目的で書かせてもらったので、いろいろ省略しています。ご容赦ください)

【デザイン思考と僕】
さて、そんなデザイン思考を最初に日本でワークショップのような形に落としたのは何故か学生組織(KBC実行委員会)だったんですね。そのこともあってか、僕自身が3年間デザイン思考に触れ合って大学生活を送ってきました。最初はとっても胡散臭かったです。なんだこの胡散臭い方法は!と思っていました。そして意味も分からず、たぶんみんな”何となくこれはいい方法なんじゃないか、次の時代を創る思考法なのかも!”とか思いながらやっていたんだと思います。

そんな、デザイン思考の試行錯誤の期間を経て、これまで4年間デザイン思考をベースにした合宿を敢行してきたわけです。だから、胡散臭いとは思いつつも、僕の中でも何か思い入れがある方法だったのは間違いありません。今、多くの人がデザイン思考、デザイン思考叫んでいるのを見ると、「あぁ、広まってきたんだなぁ」と思うと同時に、「なんか、軽はずみになってしまったなぁ」と思う2つの感情がありますが、手探りの中、素材を組み合わせてデザインプロセスを組み上げてきた人々は本当に偉大だったと思います。それを見てきたからこそ、僕もデザインプロセスに可能性を感じることができたし、それを更に新しい形へ、もっと素敵なものへしていきたい自分がここにいるのだと思っています。

【Crash Workshop開催へ】
さて、話は少し飛んで、このクラッシュワークショップを何で始めようと思ったのかというキッカケについてです。それはとても些細なことで、僕がKBC実行委員会を卒業したので何か新しい活動始めてみようと思い立ち、自分で何かワークショップを企画してみようと思ったことです。そしてそう思っていたときに、KBC実行委員会の人から1年生向けにやってくれないかという機会を頂き開催させて頂くことにしました。とても嬉しかったです。こんなに偶然って重なるもんなんだなと思っています。感謝。

第1回は、僕の過去所属していた団体であるKBC実行委員会(URL:http://www.keio-contest.org/)と一緒に、KBCに入る新入生向けとして慶應大学の教室を使って開催させて頂きました。そのときの映像はコチラ:(映像が粗くてごめんなさい)


【第2回へ向けて】
第2回目は、第1回目のテストをフィードバックしてプログラムを組み直してパワーアップさせました。そして、場所を探していたところ、立命館大学で決定しました。

実は、立命館大学とは僕が前に所属していたKBC実行委員会とのつながりが強くて毎年、彼らがビジネスコンテストを開催すると聞くと、東京から見るために足を運んでいました。どんどん素晴らしい環境を創っていく立命館大学で、僕なんかがワークショップをさせて頂くのは、非常に光栄なことです。

【詳細】
ー日時:5月20日14:00〜18:00
ー場所:立命館大学びわこくさつキャンパス
ー内容:デザイン思考で新しい”もの・サービス”をデザインする
ー料金:無料
ー申込:表立って募集はしてません。参加したい人は僕に連絡くれればみたいな感じです。(今回も学生限定かな...)
ー協力:F-DooRs(本当に感謝してます!ありがとうございます!)

2012年4月16日月曜日

超える〜beyond yourself〜

大学が始まってもう2週間が経った。前年度と違って真面目に学校に通うようになった。なんだろう、学校が楽しくなった。学校なんて意味がない、そう世間では言われているみたいだけど、実はそんなこともなくて、一歩一歩遅いかもしれないけど、物事の深いところを理解しているような気がする。掘るためには時間がかかる。


僕は今、数学を勉強している。あと、統計学とか、アルゴリズムとか。全部言ってしまえば”数学”をベースに展開される話ばっかりだ。統計学という学問で多くの人が思い浮かべるのは「グラフ」かもしれないが、統計学では「何をどう解析すれば、求める結果を得られるか」ということを学ぶ。多くのグラフは間違った解析の賜物だということがよくわかる。Rを使った解析から始まり、latexも扱うし、C言語もやる。と言ってもほとんどが今注目を受けるwebやサービスとはほど遠いと言ってもいいかもしれない。

数学では、関数論、確率論、線形、非線形解析など、多岐に渡る分野を学ぶ。といっても、ほとんどが証明で、専ら数式と文字を書き続ける。計算なんて存在しない。それは数学ではなく計算機がやってくれればいいことだ。僕らより、計算機の方が優れている。僕らは、何を解くべきかを学ぶ、そして解いたときの正当性を検証する。それが数学だという。高校のときとは全く比べ物にならない世界。1/nのlimが収束するのさえ、いちいち証明する。こんな我慢強いことを自分にもできるのだと案外自分自身に感心するぐらいだ。

さて、こんなことを書こうと思ったのは学生団体を引退してから1ヶ月経ったからだ。僕は学生団体を3年間やって来た。その中である意味自分の専攻である数学を捨てて、必死に事業創造や事業支援システム、経営学を学んできたし、イベントの設計、参加者の対応そういうものを必死に行ってきた。もちろん完璧とはほど遠くて、いろんな人からアドバイスをもらった。もちろん、そのアドバイスにイライラしたこともあった。でも、それも一つ勉強だった。できない自分を認めたくない自分というのがいた。だから人のせいにして逃げていく。でも、それじゃダメだというのに気づかせてくれたものまたKBC実行委員会という場所にいたからだと思う。人は逃げるのがうまい。自分ができないことを恥ずかしい、恥だと思う。でも、それを乗り越えないと、自分を次に進ませることはできないんだということを学んだ。でも、よく考えたら”相手”は「もっと良くなって欲しい」と思ってアドバイスをしてくれてる。そう思えば、全然恐れることなんてない。

そして、この組織を卒業して見える世界がまた変わった。大学という場所を改めて見る機会になった。その前に、僕にとって大事だった3月と言う時期は僕にとってはとても大事な時期だったことを書いておく必要がある。この時期に自分はたくさんのことを思い出し、そして新しいことを学んだ。落ち着いて時間ができたので全然知らない分野を学び始めた。経済、政治、哲学、これまでいろんなところで雑誌の記事を見たことがないぐらいの僕が、改めて本を買って(と言っても新書ぐらいだけど)勉強し始めた。これが、面白くてたまらなかった。世界が広がっていった。人と新しい会話ができるようになった。そして、”出現する未来”という場の理論について学んだ。未来は誰が先導していくのか、考えるようになった。そのために自分に何ができるのか考えようと思った。

そんな時期を経て4月で大学に戻った。普通の何もないごく普通の大学生活へ。始めはかなり違和感があった、というか学年が留年で1つ違うので、友達もいなくて...いまはできた。でも、大学って素敵なところだと思った。自分の姿勢次第でどんな風なことも学べる場所だと思った。みんなはこの素敵な場所の活かし方を知らないで、大学とか行くぐらいだったら早く就職した方がいいなんて言う。

僕は、今だから反対したい。大学には可能性がある。でも、それを使う人がいない。僕も3年前大学にいた頃は、”大学なんて使えない”そんなことを思う一人だった。でも、ビジネスという世界に出会って、自分と出会って、そして大学に戻ってみると開ける世界はたくさんある。攻めの大学生活とは、大学を飛び出して、社会でインターンすることではない。その経験を通じて大学に価値を見いだし、それを活かす人になることだと思う。

僕は少なくとも後2年間大学にいる、でも全然苦しくないし、焦ることも何も感じていない。だってそこには素敵な環境があるから、学びたいこともたくさんある。空いた時間にやりたいこともたくさんある。夢で溢れてる。僕にはそういう風に「大学」という時間、場所が視えている。だから大学生という時間を、今は社会で「働く」なんていうことに使いたくはない。軸足を大学において、存分に活かしたいなと思っている。

新しい出会いと、新しいチャンスが見える場所にいる。
そして好きに、追いかけられる場所って大学しかない。
そんな時間を謳歌することは今しかできないと思っている。

大学は、今を生きる人と出会う場所であり、これまでを生きた人と出会う場所でもある。
だからこそ、僕は大学という場所をもっと素敵な場所に変えたいと思う。
そして、大学を変えるため必要なのは独善的なリーダーシップではなく、人と人をコラボレーションさせて共に変えていくという姿勢を貫ける人格者であると思って止まない。

2012年3月26日月曜日

20歳の夢…前田敦子の卒業について

昨日の埼玉スーパーアリーナでの出来事で「前田敦子」の卒業発表が行われました。
これについて思うことを書きます。

AKB48というある意味非常に大きな組織のセンターであった前田敦子が卒業するというのは、初期の頃から見てきた自分にとってもとても悲しいことで、やっぱりまだまだ発展して欲しいと思う部分もあります。ですが、前田敦子もまた「人」なんだなと感じさせてもらえる場面でした。

 人は、周りから影響を受け、思考を汚染され、心を縛り付けられています。故に、非常に脆い。ですが、その中でも自らの「意志」で物事を決定できるという側面もあるのは事実です。その意志をこうやって、決まってもいない段階でもファンやメンバーへ伝える勇気というのは僕は素晴らしいと思いました。

 ある場所から離れるとき、みんなは何も言わずに消えるようにすーっと去っていきます。それを僕も見てきました。そして、メンバー間に溝を残してしまう。ですが、こうやってみんなの前で、理由を述べて新しい場所へ踏み出していくことを発表できるというのは強い心と使命感を持っていたんだなと思っています。できる人はそう多くはない。

 最後に20歳の”夢”という表現。一種、私がいなくならないと後輩が前に出れないという自尊の表れにも聞こえるけど、それは違うと思う。彼女なりの表現で、「私が先導を切る」という意味に他ならない。AKB48を引っ張ってきた自分が、ここを卒業しても活躍できるということを後輩に見せ、その後ろ姿でまたAKB48を引っ張っていこうということだと思っています。

 不器用ながらも、AKB48を引っ張ってきた前田敦子は素晴らしかった。
そして、それを活かして支えてきた、秋元康、高橋みなみも素晴らしかった。
これからに期待したいと思う。




ーーー以下発表内容ーーー

私から、お話をさせてください。
私は14歳の時に、AKB48のオーディションを受けました。
そして、初期メンバーとして加入させていただきました。
それは、そのオーディションを受けることは、私にとって、大きな決断でした。

そして、今日ここで、2回目の大きな決断をさせてください。
私、前田敦子は、AKB48を卒業します。
私は昔から、感情の起伏がすごく激しくて、
メンバーにもたくさん迷惑をかけてしまいました。

そして、ファンのみなさんにも、たくさん心配をかけてしまったと思います。
それでも私なりに、頑張ってきた6年半でした。

コンサートの初日に、東京ドームの発表があって、14歳のころからみんなで夢見てきた、その夢がかなうから、それを楽しみにして、二十歳(はたち)の夢に向かって、動きださなきゃいけないとあらためて思いました。

正直、不安で一杯です。どうなるか分かりません。
たくさんいる後輩のためにも、私が、卒業をして歩き出さなければならない。
そう思います。ですが、まだ、詳しいことは決まっていません。

今すぐに辞めてしまうわけではありません。
また詳しいことが決まったら、みなさんにお伝えします。
私のために、時間をさいてしまって、すみませんでした。

本当にありがとうございます。はーっ(深呼吸)。
今回、たくさんの方に止められかけました。ですが、今日、ここでみなさんに発表することは、絶対にしようと思って、ここまで(ライブを)やってきました。

短い間かもしれませんが、私はまだAKB48の一員として、みなさんとすてきな思い出をたくさん作って、みなさんに、笑顔をあたえることを忘れることなく、頑張っていきたいと思います。

今日はびっくりさせちゃって本当にすみません。本当にありがとうございました。

2012年3月14日水曜日

デザイン思考と March KING2012

March KING2012会場
今日は、March KING2012に参加してきて思ったことを書こうと思う。
間違っても、否定的なことを書きたいわけではなく、これからのKING2012がもっと良くなることを祈っての記事だ(ユーザー調査と思ってくれればいいかも)ということを断っておく。今日のタイムラインはこのような感じだった。

※今回の記事は、誰も考えていないかもしれないのですが「March KING」を観察した(Seeing)記事です。僕は今回は敢えて、自分の意見を統合して最後までは書かないことにしました。あの場所を再度プロトタイプするのはKING2012のメンバー自身だろうと考えているからです。

構成
17:45 スタート(6名1チームみたいな感じで席に着く)
※本番が4名1チームなのに、なんでここでケースやデータを取ろうとしなかったのかはちょっぴり疑問が残る。
17:50 社会人のセッション(社会人の方は知り合いですw)
18:40 グループワーク
19:10 休憩
19:20 パネルセッション
20:40 質疑応答
20:50 交流会
21:20 終了

山口さんと櫻井さんのセッション
社会人のセッション
デザイン思考のさわりを解説してもらう場所だった。でも、その前にアイスブレイクをすることがあるともっと良かったと思った。内容自体は、デザイン思考を一通り知っている人に取っては、すごく平易なないようだったけど、やったことない人にとっては、スーツ、ギーク、デザインがそれぞれ場に置いて果たす役割も分かりづらかっただろうし、それ以上に具体例を用いて説明した方が良かったなぁなんて思っていた。
もっと言えば、KINGのスタッフはこのときチームにいて彼らの話している分からないところを解決する役目をしたらもっとよくなるかも(そうすると、参加者が理解に苦しむ場所も明確になるので、本番に反映しやすいだろう)。
でも、山口さんと櫻井さんやっぱりいい感じに掛け合うなーと思った。相変わらずコンビネーションが抜群ですよね。毎回わくわくです。






グループワーク
競争性が創造性を阻害する形に働いていたと思う。これでは、ほんとうに大事だと思っていたものが消されてしまっていたのではないかと思っていた。(気付いていない人がほとんどだったかもしれないが、実は競争性(1位になる)ということを意識し始めると、型破りなことがしづらくなる。視野が狭くなり、創造性を阻害し、コラボレーション性を著しく損なうことになる。ルールを守り、枠を抜けられなくなる。)
これは、今回のマシュマロチャレンジで起こっていたことだった。あと、プロトタイプというのは、周りにいくらでもあるものを用いて、簡便にものを創り、創造し直すことができるようにすることであり、断じてそこにあるものの数で制限を付けられては行けない(スパゲッティーの本数や、ひもなどはあっても良いが、使える本数だけ決めて、予備を無限に用意する必要がある。)そうすることで、個人としての創造性が、集団としての創造性を加速させるようになってもっといいものになるだろうなと感じた。(実体験ベース)

休憩
社会人が退出したのは、ちょっと痛かった。あの時間に質疑ができる環境をつくり、1部の参加者と場や雰囲気を共有する必要があったと思う。そうすれば、この後のパネルディスカッションももっと意味のあるものに変容させることができた。参加者と登壇者がミスコミュニケーションを起こすとそれだけで一体感を損なうセッションを開催してしまうのは注意すべきかも。

パネルセッション
まず、質疑応答でのパネラーがTwitterを利用していたのは素晴らしかった(あれをスクリーンで共有すると、場が一体になってもっと素敵になると思う)。Twitterでも出ていたが、個人の意見を聞き出す必要がある。社会がどうだとか、公務員がというのは、正直関係あるものではない。その人がそれについて何を思っているかはそれほど大事ではない。むしろ、「あなた達は、何を考えて活動しているのか?」、「どのような未来が実現されるべきだと思っているか」などの未来や自己への質問をもっとしていく必要があると思った。そして、観覧者が消極的すぎた。最高のパネルディスカッションは、観覧者や運営者、登壇者という身分をそっちのけで議論できるようになることだ。あと、小池君がキュレーターをしていたのが大変だっただろうが良い経験を彼もできたのだと思っていた。おつかれ!

ただし、あの場に居た誰もが、「あの場」をデザイン思考していなかったというのは、僕は正直感じていました。

交流会
素敵な場だったと思う。集まったときよりもエネルギーの高い場だった。でも、ダウンローディングによって体現された場を少し破った気がする。そして、新しい出会いに満ちていた、素晴らしい空気感だったと思う。今日、僕も後ろに座っていた社会人と話すことができてとてもうれしかった。もう一度あいそうな気がする人でした。

まとめ(感じていたことをまとめる)
今日、少し「場」を意識するために、ワークで遠ざかってみましたが観察していて結構面白かった。思考が「一番高く積んでください」と言われた瞬間にみんなの意識が「確実に勝つ」という方向に向かい、クリエイティビティを損ない始めた様子には圧巻だった。やっぱりかという想いがこみ上げた。過去の自分の経験が蘇ってしまった(笑。そうすると絶対にクリエイティビティを重要視する立場には戻れない。まさに日本社会の縮図があの場所で起きていた。スピードをある意味落とすことへの恐怖感だ、考えてるということは安心感を覚えるし、プロトタイプを失敗したらどうしようという想い込みが悪い方向に向かわせていた
。あと経験が不足して15分という時間の長さを感じれていなかったのだろう。あとは、一言一言が相手に与える意味っていうのも、ヤッパリ大事にしないと行けないという感覚を覚えた。

KINGというコンテキストを超えて
KINGというコンテキストを読み解けば、その源泉には「競争性」が深く根ざしている。それは、「創造性」を阻害する力となってはたらいているように読み解けた。その結果が、マシュマロチャレンジの結果だ。今のままでは、あのような成果物を合宿で創り出してしまう。自分の話を少し加えていいのなら、KBC実行委員会ビジネスコンテストの大きなコンセプトである「恊働」という考え方をあの場所が体現できるようにしないといけないだろう。競争性と創造性をうまくミックスできれば素晴らしいコンテストをすることができると思う。
あと、ここからは自分の意見だけども、デザイン思考には「コンテスト」という形式がそぐうのかは正直疑問符が浮かぶところであるということは言っておこう。あと、デザイン思考は間違えて欲しくないのは本質が「プロトタイピング」にあるのではない。
ユーザーと一体(主体、客体、観察者という身分超越から始まる)となる場を創り出すことから始まり、彼らと対話し、問題の本質がそれを創り出す自分にあることを知り、改善環境をCo-Creatingすることこそ、本質だ。でも、これを知り実践するためには自らでプロジェクトを回し、人を巻き込んでいくという、まさに今日話していたことを自らで体現して、失敗して始めて身につき、実践できるようになるものであるということを忘れてはならない。(僕がこれを理解したのは、中学、高校、大学での特異な実践経験と、知識を融合できたからだと思っている。)。僕から言えるのは「デザイン思考」をするためには=Open Thinking, Open Heart, Open Willのもとで、世界を見ることから。ということです。

でも、今回のKING2012を見て、彼らに一層の期待感を抱くようになった。
彼らがKINGを卒業した後に、一緒に世界をCo-Creatingする日が楽しみだ。
今は、がむしゃらになって、必死に頑張って欲しい!

2012年3月9日金曜日

「留年」へ送る感謝と、これから留年する人へ

今回は、「留年」をしてしまった皆さんへ書こうと思います。
そして僕の今年の留年を支え、そして素晴らしい出会いをくれた皆さんへ
感謝を書きたいと思い、ここへ書かせて頂きました。

留年という事実

留年をした皆さんは、どのような心境でしょう?「いやー、やっちまった」、「親に怒られる」、それは間違い有りません。怒られてください、そして反省してください。それは、事実に対しての謝罪なので避けるべきでは有りません。そして、来年は是が非でも進級してください。

僕の経験を話します。僕も留年したとき、本当に「・・・」ってなりました。留年ということは分かっていたのですが、実際に成績表が手元に来ると本当にがっかりするものです。本当に残念で、社会的地位を失ったかのような気持ちになります。まさにその通りで、僕の所属する組織の皆さんは一部を除き非常に輝かしい成績を収めてきた人ばかりです。そのなかで留年て...なんて思っていました。学校の同期も全員進級して、僕だけ2年生に居残りです。本当に心の底から寂しかったし、残念だなぁと思いました。


転換点

新学期が始まり、わかったことがありました。それは、周りに「友達」が一人もいないことです。特に学園祭というようなサークルにもいないので、同じ学部に後輩も居ません、出身は和歌山なので地方の友達もいません。だから、授業は見事にひとりぼっちです。でも、そのお陰で不思議と「出席」する授業は「勉強」していました。話す人も気になる人もいないので、自分のペースで勉強し、終わった後わからないなら質問できました。そして、不思議なことに今でも勉強した内容を実際に使うことができて、過ごしている中でも役に立っていることも有ることです。

気付き

そして、新学期が始まってもう一つ気付いたのは、友達に気を使わなくなったので、全くと言って良いほど、自由。時間の制約もない。本当に自分中心で時間を決めて、行動することができた。一緒に勉強なんてしないし。そうすることで、新しい気づきをたくさん得て、自分が過ごす時間は自分でデザインする。そういう感覚が芽生えたんです。そして、他社との比較から自分を見つめるのではなく、自分は何がしたい?、どこに行きたい?、どんな人と会いたい?っていうのを真剣に自問自答し、その想いで動いていたように感じます。

ネタ

留年すると、社会人に会うときでも、学生に会うときでも、自分の学年を発表するのがとっても怖くなります。おもしろぐらいに。でも、それってよく考えてみてください。「ネタ」ですよ。ただの「ネタ」です。掴みはばっちりです。最高の「掴み」を実現することができます(もちろん、人に寄りますが)。残念なことに、「一般的価値観」に縛られている人は、残念ながら理解してくれませんでしたけどね。落ちこぼれかと「冷ややかな目」で見て頂きました。でも、気になりません。彼らは「留年」という事実しかみていないのに、「ダメだ」と勝手に判断してしまっているのです。僕はこれは問題だと思っていましたね。

留年したみんなへ

ここからは「留年した」皆さんへ。
いま、あなたは「留年」しました。
さぁ、どうしますか?考えましょう。

その事実を応援だと見なして、一生懸命勉強に励む。それも素晴らしい。
その事実を良いことだと捉えて、取る単位が少ない分時間がたくさんできるので、学校以外の活動に励む。それも素晴らしい。
自分の面白いと思うことを、一心不乱にやってみる。それも素晴らしい。

やって欲しくないのは、留年したことを引きずること。
そして、そこから派生する自分への不利益を「最悪なこと」と捉えることです。

留年をすると、これまでの友達とはクラスが離れるでしょうし、合う回数だって減ることになります。これを、もし”悪いこと”と捉えるのならば、それまでです。

ですが、「助けがなくなったことで、自分でやるってことは、本気でやらないといけないし、身につくよね」って開き直って、良い方向に考えられるなら、留年したことは本当に意味の有ることになるでしょう。勉学が経験上、本当に身につきます。

そして、少ない回数「濃く」会おう。
そしてそのやり方を身につけよう!そう思えば良いんです。
そのやり方も身につくようになります。

実際、今年留年して僕はそういう1年を過ごせました。
友達が居なくなって、過去問もないので、毎回必死に勉強するんです。
でも、すごく楽しいんですね。やらないと仕方ないんですけど。
ただ、友達とのいらない時間は過ごさないでいいし、自分の好き勝手勉強できる。素敵な環境を「留年」からプレゼントしてもらいました。自分一人で落ち着いていろんなことに想いを巡らせる。そう言う時間がいかに大事か、そしてその時間から生まれてくるものがいかにたくさん有るのかということを知りました。アイデアコンテストの「プログラム」のアイデアはこういう「空白」の時間から生み出されました。

これは、僕からのおすすめしたいことです。
留年した皆さんは、これまでの友達と「絡む」時間を極力少なくすることから始めましょう。そんなに世界は狭く有りません。新しい人と、新しい時間の過ごし方を考えることから始めましょう。こんな素敵な機会に出会うことができているんですよ!素敵な贈り物です。そうすると、大学へ行く意味、勉学に励む意味、どんな勉学に励むべきなのか、そういう本当の大学の意味に出会えるでしょう。

もし、「留年したこと」を就職活動に不利に働くと思えば、それまでですが、「留年した。だからできたことがあった。」と、もし開き直って考え、行動できるならそれは非常に意味のある「留年」になるでしょう。そして、その想いと言葉は「留年しなかった」自分が言う言葉に比べて十分に想いの篭った言葉になるでしょう。

僕はこれから、就職するなら、就職活動をする身ではありますが、今年1年間を使って社会人の方とのたくさんの出会いに恵まれました。そして、どういう学生を求めているのか、そしてその本音を聞くことができました。それは、この1年間がなければ絶対にあり得なかったことです。もし3年生になっていれば、担当者は採用活動を僕にしていたでしょう。でも2年生だったからこそ、そうはならなかった。だから、皆さんは「就職活動」ではない状態で、社会と始めて「対話」する機会を持ったことになります。

大事なことは、目の前で起こることをすべて、瞬間的に「悪い」ことと判断しないことです。そこにあるのは事実だけで、それ以上でも以下でもありません。あなたが、社会から縛られる価値観に寄って、無意識のうちに事実を「良い」か「悪い」か判断しているということです。これは大きな問題です。これだけはやめて欲しい。勝手に創られたルールで目の前の事実が、あたかも自分が判断したように「悪い」って判断される世界です。怖いですね。

最後に、僕は、今年1年間留年を経験してきて、一番大きな財産はものすごくたくさんの「出会い」に恵まれたことでした。この1年は僕の人生に取ってとても大切な時間だったし、何にも代え難い経験になっているということは伝えたい。そして、新しい一緒に世界を変えようとするパートナーに出会ったことも。

感謝

今年1年間を過ごして、思い出深いのは、6月のStudy WorkshopでRecruitの方と一緒にイベントを共催したときに出会った社員の皆様。Mbaobaoで出会った、HARU Consultingの皆さん。そして、KBC Idea ContestというNICTと共催したイベントでお会いしたNICTの方々MURCの方、勝屋さん、中嶋さん、照沼さん、世良さん、本間さんというメンターの皆様。更に、新しい出会いではないですが、これまで以上にメンター三田会の皆様とは深いかかわり合いができ、新しい事業にコミットメントさせて頂き新しい貴重な経験を今、積ませて頂いております。そして、日本創り継ぐプロジェクトで出会った山口さん、櫻井さんを始めとするNRI, NTTデータ経営研究所の皆さんや、そして、これらのイベント、事業に参加してくれた参加者のみんな!KING, GEIL, OVALなどたくさんの繋がりました。(特にって書いたけど、全部濃いなぁ!)。そして、ここに書ききれないですが、支えてくださった皆様。そして、KBC実行委員会の仲間心から感謝しています。


最後に

僕の留年を許してくれる一番身近な人へ本当の感謝の気持ちを伝えたい。
この1年間、いやな顔一つせずにただ「自分の人生だから、やりたいように過ごして、楽しめ」と言い続けてくれた家族、特に父と母に心から感謝したい。

メッセージ

これから留年するみんなへ。
これから何を得るのか。そして何を見たいのか。
どんな新しい人と出来事に出会えるのか。
もっと期待を膨らませまてほしい。

僕は今だから、これから「留年する」みんなへ声を大にして伝えたい。


これから始まるのは、
「新しい人生への「入学式」だ」

2012年2月27日月曜日

世界は、私たちが考えた通りにある#1

最近のセミナーでは「スキル」アップできるとか、価値観を変えようとかそう言う話をテーマにしたモノがたくさん有るように思う。でも、ほとんどは成功者(と言われる人)のありがたいお話だったり、社会問題の本質は何かを延々と答えもでないままディスカッションするイベントだったりする。

でも、人の「価値観」については僕もすごく興味があるから、ちょっと独自に論を展開してみようと思う。これから書く内容だ。ちょっと不思議な話をする。自分の”思考”のお話だ。でも納得できると思う。思考を変えれば、見える世界(認知世界)は面白いほど変わる。




「ポジティブな世界」と「ネガティブな世界」

人は、常に思考を通して周囲の世界を選び取って知覚している。そうすると、私たちが見落とすものがあることも逆に理解できるだろう(全てを感じていては脳が処理しきれない)。つまり、私たちは、世界の見え方を自分の思考に寄ってを変えることができる(どのようなものを取捨選択するか)、これは即ち「世界は、私たちが考えた通りにある」ということの裏返しだ。

もし、あなたが周囲に起こる悪いことだけに目を向けていたら、それに注意を払っていれば、世界は諸悪の源泉のように見えるに違いない。大学生が増えるたびに、競争率が上がり就職が...なんて思ってしまう人もいるかもしれない。セミナーを受けていないとESさえ通らない。とか、もっと日常でも、「遅刻だ…授業の単位来ないわ」、「上司に怒られた、もう昇進はないな」なんて思ってしまうこともあるだろう(僕も実際そうだった)。

それよりも、人生の素晴らしい側面を見いだすことのできる人の方が幾分楽しい人生を送れるし、幸せだ。世界が私たちの考えるように有るのならば、自分自身で世界をどのように捉えたいかを自分で選ぶことができる。私たちには変えられないこともたくさんあるが、刺激に対してポジティブに反応するという選択肢は存在すると思う。

どうだろう?そんな気はしないだろうか。

僕は、これがすごく分かっている。プロジェクトを任されることがよくあるが、うまくいかない理由を探し始めると本当にきりがない。でも、常に「なんかできる方法はあるだろう」なんて思いながら、これはチャレンジだ!とか言い聞かせながら、いろんな人に話を聞いてみる。すると、自分のやっていることが「結構おもしろいこと」で、自分自身に自信が湧いてくるわけだ。そうすると、不思議なことに思考が切り替わる。できない理由よりも、できる方法を模索し始める。そして案外見つかる。

できる人に対して、あの人はできる、だから「この仕事も教えてもらおう!」と思うのか、それとも「あの人はできるから、ああやって良い評価をもらってて鬱陶しい」と思うのか、それは世界の認知の仕方だろう。

学生団体にいると、営業なんていうことをやることが有ると思う。そこでの僕の経験をシェアすれば、よく営業先の人には、まずイベントの説明をし、協賛メリットを提示しという順番で説明することがほとんどだろう(特に経験のない人はこれをステレオタイプにしているだろう。)そこで、「それ、うちが協賛して何の意味が有るの?」なんて聞かれるわけだ。
そのときの切り返し方だ。そこで「だから、こういうメリットが!」なんて言うのは残念ながらネガティブか、世界の認知を間違えている。ポジティブな人は冷静にこう切り返すだろう。「申し訳有りません、私たちはこういう意図でこのメリットを提示しましたが、御社にとって適切ではなかったようです。逆に、御社に取ってどのようなことを私たちから提供させて頂ければよろしいですか?」とニーズを聞く場へと変更し、さらりとその場の空気を変える。こんなことができるようになるわけだ。

これは、「状況」を変えることはできないが、「自分の反応」は変えることができる。ということだと思っている。困難な状況にいるときに、冷静に対応したりする人を見るのは気持ちがいいし、それ以上に困難な状況を楽しめて好転させることは自分にとっても大きなプラスの経験になる。


「人生の手綱を自分で握るために」

大事なことは「体験する出来事は変えられない」ということだ。私たちは、思考に寄って、それが良い経験なのか、悪い経験なのかを決めている。

雨が降れば、野山へのピクニックは中止になるかもしれない。しかしその代わりに、普段は行くことのないような、博物館を発見することになるかもしれない。物事にどのように対処するのかによって、障害ともチャレンジとも捉えることができるわけだ。


だから、どんな出来事にも柔軟な姿勢で、あるいは新しい方法で対処するように、粘り強く考えるようにすることはとても大事なんだと思っている。

このように、どんな変化も無条件に受け入れ、まずは先入観なしに、ありのままに受け入れると良いと思う。そこから状況をどのように捉えるのか、選択することができる。
だから、何事もすぐに「良い」とか「悪い」とか決めつけないで欲しいと思っている。レッテル貼りをしないで欲しいのだ。そうではなくて、単に「事実はこうですよ」という風に自分に言い聞かせて欲しい。制限を設けないことによって、「自分が物事をどうとらえたいのか」ではなく、物事をありのままにとらえることができる。

そうすることによって、他の人に責任を委ねるのではなく、いつでも自分に責任を持つことができるようになる。我が身に降り掛かった状況の原因を、他人ではなく、常に自分に求める。そうすれば、いつでも自分の人生の手綱は自分で握っていられるのだ。そして、どんな場合も冷静に反応することができると思う。

というのも、物事を改めて見直せば、全く別の側面が見えるようになる。こうした方法を身につければ、じたばたせずに生きていられる。そして、自分自身を前へと押し進める追い風のような効果をもたらす。

もちろん、上のように冷静に対処できることは確かに少ないかもしれない。特に学生の僕なんて体験したことがないようなことばかりで、正直心のどこかで毎日戸惑い続けている。でも対処法をわきまえ始めているから、そうした状況はどんどん減っている。

僕も含めて、みんなが自分自身を、そして自分を取り巻く世界をどのようにとらえるのかは、自分が思っている以上に大きな影響力を持っているということに気付いて欲しい。


「運がいい人、悪い人」

あの人は運がいいよね。なんて言う話を耳にすることもあるだろう。でも、これも世界の捉え方の違いだと思っている。

自動車メーカーの創業者である、ヘンリーフォードの言葉に「あなたは、自分は何かがとても上手にできると思おうが、全然できないと思おうが、どちらも正しい」という言葉が有る。まさにそうだと思った。なぜなら、自分の思考パターンで様々な世界の捉え方が変わるのなら、思考パターンが目標の達成の妨げになることだってもちろん有るわけだ。それは、自分自身の「人生の運を左右する」、「目の前の機会を手に入れるかどうか」さえも左右する。

個人的には、「楽観的な人」は結構運がいい人が多いと思う。そういう人は、前向きで、エネルギッシュで、新しい機会や経験に対してオープンだ。一方で運が悪い人は、控えめで、頼りなく、心配そうな反応をし、目の前にあるチャンスを見つけていかそうという気がない。そんな気がしている。


結論

簡単に結論を述べてしまえば、ある事実、ある出来事、ある機会に対する「自らの思考」で可能性を閉ざしも、開きもするわけだ。で、目の前に困難な案件が来るとどう考えても、無理そうな気がするし、自分に降り掛かってくる仕事の量などを考えてしまうのだが、もう少し踏み込んでみよう。「困難な仕事」を引き受ければ、それだけ「人と会って相談することは多くなる」わけで、新しい「繋がり」もできれば、新しい機会をもらう次の機会を生み出すことにもツナガル。そんな感じで、どんどんポジティブに物事を捉えてみれば、飛び込むべき目の前の機会なんて死ぬほど有るはずだ。「アルバイトのお誘い」から始まり、「一緒に会社を興そう」までワクワクするものばかりだろう。そういう機会をみすみす逃していることに早く気付き、どんどんポジティブに突っ込んでいこう。そうすれば正の循環が生まれて、人生は「わけもわからず」明るいような気がし始める。すると、どんどん人の輪も広がるし、自分自身の成長も実感でき、最後には夢が叶っている。そういうことになるわけだ。

あと最後に、僕自身をポジティブに変えてくれた要因を紹介しておくと、ポジティブな人たちとの偶然な巡り合わせにあったと思う。一緒にいると「傷のなめ合いではなく」、いっぱい元気をもらえる人。そういう人との出会いだったように思う。

2012年2月26日日曜日

「魅力ある人」とは#1

Collaboration人材を目指す
ここ数日、来年僕の組織を引き継ぐと言ってくれている後輩に、よく言っている言葉が有るのでそれについてー自分の「あげあし」を取るようでいやなのだがー大事だと思うので書いておこうと思う。

「何をするかではなく、誰とするかだ」という言葉は、ここ数ヶ月で僕はよく耳にしている。それは、僕の所属している団体のみではなく、どの学生組織でも先輩はこの言葉を後輩に投げているだろう。特にこの時期は、多くの組織が路頭に迷ったり、大交代をするから先輩と後輩の接点が多いだろう。

でも、この言葉には大きな罠が有るように思うのだ。考えて欲しい、そして”こういう”疑問を投げかけてみよう。

この言葉はあなたに何を教えているんだい?
だからどうすればいいんだい?

 この言葉を聞いた、僕ら(後輩)が知りたいのは”「何故」これが正しいと言えるのか”という立証に加えて、もっと知りたいのは、”正しい”のなら、どうやってここで言及される「誰」を見つけるのかという方法論のはずだ。それを知れないのなら、この言葉は自分に取って何の役にも立たないわけである。
 こういう、素敵な言葉を発する先輩方はたくさんいるが、それは「本当?」(どんな経験からそう思っているんですか?)ということと、「どうやったらできるのか?」という2つの疑問を絶対に忘れないで欲しい。(この言葉に限らずだ)

僕も、この言葉を苦しくも安易に使ってしまっているが(もっと正確で、正しい表現に今後直す必要を感じている)、多くの人は、その理由を聞かない。それでは、一切意味がない。それの意味が分かり、実践できてこそ、その人の話を聞く価値が有るのでは?なんておもってしまうこともある。

次に僕なりに「何をするかではなく、誰とするかだ」と解釈しておこうと思う。
答えだけ示しておけば、「本当に分かっている人は、多くはないだろう。正直、これを以下の意味で体現できている人は素晴らしい人材だ」ということだ。ということで、僕には荷が重い言葉だ。

この言葉を聞いたとき、僕は2年生のあるプロジェクトを終了したときだったんだが、そのプロジェクトはよく言っても成功とは「ほど遠い」ものだった。メンバーも僕について来れず離れていったし、うまくコミュニケーションも取れない人だった。そのときに聞いた言葉だったからメンバー選びって大事だなと思っていた。そのころは、自分自身まだまだ(お祭り以外の)プロジェクトのリーダーなんていうものに慣れていなかったし、もっとも人のマネージメントなんてやってる余裕すら持てない人間だった。あとこの頃は、かなりシャイなこともあったし、人と会っても自分に自信がなかったから(特に実績もなく…って実は自分の魅力に気付けてないだけ)ネットワークもほとんどなかった。正直、社会人の知り合いも20人ぐらいだっただろう。

 でも今年1年間学生団体やベンチャーに入ってマネージメントを体験していくこと、そして「禅の精神」や「東洋哲学」に加えて、経営学やマネージメントを勉強していく中で、この思考が”逃げ”だということに気付いた。
 自分の周りに素敵な人がいない、または一緒にプロジェクトをする魅力的な人がいないのは、まさに「自分に魅力がないか、魅力を伝えられていないからだ」ということに気付いた。もっと言えば、「人を魅力的にする術」を自分が持っていないということに気付いた。
 人に対して気を使えたり、育てようなんていう意志の出てくる人は、本当に余裕を持てている人だと思っている。僕はこういうことをできている人を本当に心から尊敬するし、素敵だと思っている。勘違いしないで欲しいが、人を育てるというのは、”弱者側に立って、それを保護したりする”とは意味が違う。自分のプロジェクトメンバーの中にはできる人もできない人もいるはずだ。彼らそれぞれの求めるマネージメントの方法を提供し、一体感を出しながらも、スピードを落とさないということのできる人たちだ。

 だから、この言葉を安易に使っている人は、僕からすれば「思考停止」だ。魅力的な人間に自分がならない限りは、自分の周りに素敵な人は寄ってこないのだ。それに気付けず、この言葉に逃げ続けている人はろくでもない。特に、学生ならこんなこと考える場合じゃなく、自分の魅力をもっと磨いていくべきだと思う。(もちろん自分もだ)
ただ、他人から「自分自身の魅力」について教えてもらい、謙虚に受け止められるようになったとき、そして相手の魅力に気付くことができ、それを伸ばしてあげることができるようになったときこそ、一緒に仕事をする仲間を「選ぶ」側に立つ時が来るのだろう。そのときに「誰とするか」をしっかり考える必要がある。という意味だと思っている。

だから、この言葉を聞いて「新入生」を「選定したり」・「選抜」したりしている人はそもそも「自分自身に魅力がない」と思った方が良い。できるやつは「育てる」余裕を持っているし、自分でできなくても、新人を育てるのを助けてくれる人を仲間に持てているものだ。

もし下のようなことをみじんにでも思っている人がいたら自分を見つめ直した方が良い。「新人よりも自分たちの方ができるから教えてやる。」これは、まさに思考停止人材の傾向だ。それに加えて、人を育てることのできない、もっといえば一緒に仕事をしたくない人の典型だと思う。こう変えて欲しい。「新人の優れた部分を発見し、自分を超える人材にする」こういうスタンスで人には接していくことだ。

 人を信頼するのは非常に難しい。人の責任はできればかぶりたくないものだ。だから始めは、信用できるだけの力量をつける自分になることから始めよう。そうすれば、自分に余裕ができる、人の面倒をみるのはその後だ。そして、その人に仕事を任せて、責任を自分持ちにできるのはもっと後の段階だろう。
 もちろん、こういう話を偉そうに書いている僕自身も精進しないといけないし、より素敵な人間関係や、創発を生み出すーコラボレーションーを目指すなら、「人として魅力に溢れている」人材となる必要がある。そしてそういう人が社会に溢れる必要がある。それはスキルに左右されるものではなく、まさに「人間として」魅力溢れることだ。(この意味をもっと具体的にというのは、難しい問いだから僕自身も全く見当がつかない。でもそういう人は周りにいるから少しでも言語化しようと思っている。)

ただ、一つだけ僕にとって「魅力溢れる人」は、
全てを自己責任と想い、常に自省し続けること。これが、最も自分を成長させる近道であり、尊敬を勝ち得る方法である」と無意識に分かっている人である。

2012年2月24日金曜日

戦略的に自分の強さを創る#1


自分の強さに気付くことの大事さ...これは”枠”を飛び出る大きな一歩です。もっと正確に言えば、新しい競争軸を生み出すことの大事さという方が正しいかもしれません。組織において、学校において、人は競争に晒されています。ですが、そのとき”仕事成果”測る軸を、なぜか「自分そのもの」を測る軸と混同してしまい、自分の業績が悪いことに自己嫌悪になってしまいます。ひどい人では、「自分の存在価値まで否定してしまう」なんていうことになり、引きこもりや鬱病になってしまいます。これは、ある意味、集団で生きていることの弊害です。集団への同化は、自分自身の価値判断基準を組織に委ねることとも解釈できるからです。

 こういう、「自分に価値がない」と思ったときに、投げかけて欲しいことは「本当にあなたを測る軸」はそれ一本なんでしょうか?っていう疑問です。組織における「自分を測る」軸は限定数かも知れませんが、社会、生活におけるあなたの競争軸は間違いなく無数に有ります。その中から、あなたが絶対的に「自信」のあるものを見つけて、自分の競争軸にすればいいのです。そうすると、不思議なことに一種の”安心感”を得ることができます。この安心感は「精神安定への安心感」だけでは有りません。「挑戦への意欲」をかき立てます。

 これは、単純な理由だと思います。「独自の競争軸」を生み出すこととは、自分にその才覚があることを認めることを意味します。しかも、その競争軸で勝負する人は自分以外には存在しないということが、なんとなくわかるでしょう。すると、一つ「何もしなくても、誰にでも勝てる分野」というのが自分の中で独自の体系で出来上がるわけです。そうなれば、その「安定感」こそが、一種の「挑戦する勇気のリスクヘッジ」となるわけです。こうやって、自分自身の競争軸を生み出すことで「自らの挑戦を後押しすることができるのです」

では、その新規の軸はどうやって見つけるんでしょうか?
結論だけ先に書いておきます。(この先は、明日ぐらいに書こうかと…)
・「なんで、そんなことやってるの」と疑問視される分野にある
→その人には理解できない価値基準で動いている
・「こういうところ、すごいと思う」と誰かから指摘される分野である
→客観的に素敵な部分は強みになる可能性を秘める
・スキル(物理的)を必要とせず、誰にでもできそうなこと(飲み会幹事など)をよくまかされたりする
→あなたの「安定感をもって成果を出せる」部分を教えてくれている。
・自分ではわからないが、迷惑がられていそうな分野にある
→社会人との接し方が、適当で一般的に失礼にあたる(でも、実はそれが好みの社会人がいたりする事実)

2012年2月23日木曜日

枠にハマってる人ってどんな人?#1


2月に入って「”枠にハマっている人”ってどんな人だろう?」という質問を、いろんな社会人、学生組織のもと幹部達、現学生組織のメンバーなどに話を聞いているのですが、ちょっと答えが視えてきたような気がするのでシェアしてみます。


枠にハマってる思考をしてる人の傾向。


電車で寝転がる人

1.「普通」「当然」”こう考える””こうするでしょ”っていう発言をする。
→大丈夫、それを「普通」思うのは君だけだから(笑

これがすると何がまずいのか。自分が思っていることを「普通」と感じて止まない人は、環境に自分を合わせるのが苦手です。正確には、「おまえの考え方はおかしいから、変えろ!」ということになりかねません。これはユーザーや顧客のことが「分からない人」そのものを表しています。こういう考え方にならない為には、相手のバックグラウンドを知ることが大事です。何故そう考えるのか、何をしていてそれに気付いたのか。そこに意識的に注目していく訓練が必要かもしれません。
あとは、こういう思考をする人の特徴のような気がしているのは、誰かに創られた”競争軸”の上で生きているということです。「偏差値」「業務成績」もちろん大事ですが、それだけではない。それだけで人は判断してはいけないんですよね。
あと、こういう人はみすみす”様々なチャンスを逃しているような気がしています”(ここは本当かどうかわからないけど、「相談したいと思えない人」に周りからは写っていると思うので、そういう観点からはチャンスを逃す人です)



2.共感重視の対話ができず、自分の意見を「ストレート」にしか述べれない。
→「相手の気づき」を殺さないようにもう少し自分を抑えて、表現力つけてみようか(笑

これは”表現”の問題ですね。「相手の気づき」を「いや、それ当然だから」と返すのは簡単ですよね。でも、それをされたときの相手の気持ちはどうでしょうか?簡単に言えば、その人と一緒にいても楽しくないなとなります。
これでは、誰かと何かを「協創」はできないし、もし新しいものを生み出しても、あの人は「拾ってくれないからまあいいや」という事になっていまいます。これがどんどん積み重なっていくと、それは悪いスパイラルになります。あの人といるとネガティブになる。おもしろくない、一緒にいたくない。そうなってしまいますよね。だから、積極的に拾うとか、相手の言っていることを自分は分かっていますよ!ということを「表現を変えて、確認する」こういうちょっとした行為で相手は自分を、”この人はわかってくれるんだな”と思ってくれます。
(これに僕が気付いたのは、大学2年生の夏の終わりです。「彼女のいない僕(笑)」が先輩と話していたときでした。この意見に行き着くまでには、もう少したくさんの人と経緯もあるのですが、きっかけを与えてくれたのはKBCの先輩と、慶應のOBの皆さん。感謝しています。ありがとうございます。
「お前の言葉は切れ味がいい、「言葉は刀」。切りまくれば、切れ味は悪くなる。「ここ」というとき以外では出しては行けない。まず相手の言っていることの真意を理解して、本当にまずい場合だけ刀を出せ。そしてだいたいの意見は間違っていても修正は利くものだ。もし、その修正案がなければ自分の力不足を恥じた方が良い。常に、新しいものを提案する側に回り、相手の意見の良いところを見つけのばす。いらないところを削ぎ落す。そういう考え方を身につければもっと成長できるよ」。そして、これを通して学んだのは気付かせてくれる誰かの存在の大事さです。)



3.自分が最初の意見は述べず、人の意見に上から言いたい放題言う。
→最初の意見書く人のこと考えようか。彼らは別にたたいて欲しいわけではないと思いますよ。(これってまさに、日本社会。出る杭は打たれる)

こういうビジネスアイデアを思いついた、こういう洞察を得た!というのを積極的に発信できる人が世の中にはいます。結構、希有な人々かもしれません。なぜか。
それは自分の意見に自信があるからではないのです。「自分の意見を発信する」のは僕の場合「もっと、良くして欲しい」という想いが有るからですし、「もし、こういう洞察を得てない人がいれば、得て欲しいな!」なんて思って発信するわけです。なにも「おれすげぇだろ」とは思ってません。でも、不思議なことにその意見に対して、「それ普通じゃね」とか広がらない意見を言う人や、「こういうことだから、それは違うので、やめた方が良いです」としか書かない人がいます。特に後者を書かれたらどうすればいいんですか、「別の方法は??」「代替案ないのに批判してるんですか…それ、自己満足なら迷惑だなぁ」なんて思うんですよね。
あと、そういう人の特徴は、まぁ僕が昔そういう人だったので何となくわかりますが「情報を人に与えることを嫌う。自分が負けるような気がする」とか「知らなかった人を、心の中でバカにしている」というところがあります。でも、それ相手に伝わってるので気をつけた方が良いですよ。(人は自分を映す鏡です)

つらつらと書いてしまって、実はまだ自分の中で”これだ”っていうのは視えてないんですが、できればこれをうまくまとめていきたいなぁって思っています。(あるプロジェクトの一環でもあります)。皆さんの智慧を是非貸してください。こういう”枠を破る”っていうことに興味があってお話を聞かせてくれる人がいれば(思考の枠を破るみたいなことを研究してますっていう人とか)、あと”枠を破ったような気がした経験”がある人でその経験を話してくれるなんていう人がいれば是非連絡をください。あと”私、枠にハマっているような気がするんです”っていう違和感を持っている人も是非話を聞きたいと思っています。よろしく御願いします!

連絡先:tomoshige.nakamura@gmail.com

P.S.
ちなみに明日も打ち合わせのときにこの話をヒアリングしようと思っています。

2012年2月4日土曜日

Social Dinner#1

昨日、夜の予定がなかったので、Facebookで「一緒に晩ご飯食べる人」を募集したところ、前々からfacebookでどこかで会いたいですね!と言っていた”Koichi Maeda”さんが反応してくれて、日吉でディナーを食べることに。実は、前田さんはfacebookのイベントで”朝カフェ”会(情報は下記にあります)をやっていたのですが、毎回予定がかぶってしまって、全く参加できずにいたので、今回会えるのがとっても楽しみでした。



正直な話、Profileを見てどんな人?なんかよくわかんない?(ごめんなさい、失礼ですが)なんて思っていましたが、会ってみるとすごく落ち着きのある方で、素敵で、自分の”ビジョン”をしっかりと持った方でした。つくづく、情報を”間違ったフィルター”を通して見ているんだなぁと感じてしまった次第です、反省ですね。

その席で、話したのはまさに”自分が何をしたいのか”ということや、”何を思っているのか”、”どういう精神性で活動をしているのか”、”自らの哲学は何か”など。とても濃い話ばかりです。こういう話のできる人ってそれほど多くないので、素敵な仲間に出会えたなぁという気持ちでした。

自分が”心に秘めている”想いを話したいと思える相手って、それほどいないと思います。友達同士でも、本音は言わない、そんな時代や雰囲気の中で、こういう話を真剣にできる相手にまた一人、出会えたことをとてもうれしく思っています。今、自分の置かれた環境にはこういう”夢”をシェアする仲間がたくさんいます。それは本当に素敵なことで、自分の”素”を受け入れてくれる人が周りにいるということです。こういう環境の中で生きていられて幸せです。

あと、僕と前田さんの2人が大事だと言っていたことの一つは”周りに惑わされない”ことです。それは言い換えれば、”疑問”を常に持つことだと僕は解釈しています。自分なりの生き方や”義”を貫くことが大事だと。

「友達が就職活動をしている。学生はみんな就活してる」ということに、自分なりに”疑問”を投げかけてみてください。何で、僕が、私が”就活”するのか。

 そこに、自分なりに”意味・意義”を見いだせるのなら、本当に意味があることをしているんだと思います。でも、もし”なんでだろう?”とか、”僕は本当はこうしたいのに”という反発の精神が生まれるなら、自分で納得できていないことを行っているかも、何かやり方を間違っているかもしれなと思った方がいいかもしれません。

「好きだからやる!なにか達成すべきことの為にやる!」
この2つは、僕と前田さんが深いところで通じ合ってる精神性の一つだったと感じましたね。

第6回LOI主催 2/11(土)朝カフェ会!《残り7名までOK!》
→前田さんに会いたい人はここに参加してみると良いです♪


ーーーFacebookから転載ーーー
このカフェ会の【コンセプト】は以下のようになります。
・新しい環境に触れ、違う価値観をシェアし、視野を広げる
・コミュニケーション能力の向上
・人脈作り、友達作り
・ダラダラしがちな休日の朝を刺激のある朝へ!
=コミュニティをシェアする(CommunitySharing)
コーヒーを飲みながら、ご飯を食べながら違う価値観を持った方とお話しませんか??
男女、異業種、他大学で友達を作りませんか?
年齢制限は特にありません!!!
貴重な機会ですので、お時間ありましたら是非ご参加ください

《詳細》
日時:2月11日(土)8:30〜11:10
※今回も午前中でサクッと終わらせます〜

場所:喫茶室ルノアール 渋谷東急ハンズ前店
住所:東京都渋谷区宇田川町36-2 ノアビル2階
(センター街側の東急ハンズになります。お間違いのないようお願いします。)

参加費:各飲み物代(コーヒー510円〜)
暖かいお茶とお水は無料でバシバシ出してくれます。
ーーー

2012年2月3日金曜日

Social Design Cafeのお二人と!

 今回は、ちょっと趣向を変えて、素敵な方とお会いしたので、その紹介をしたいと思います。
 先月26日にSocial Design Cafeというイベントを運営する株式会社はぐくむでインターンをしている、和泉君という学生とお会いしました。その際、一緒に代表の小寺さんという方も同席されていたのですが、お二方とっても素敵な方でした。僕自身、ソーシャルデザインカフェなるものがあるということは実は知っていたのですが、全く詳細を知らずいろいろお聞きしました。


Social Design Cafeについて From Webpage

Social design cafeとは
理想の社会を語り合い、語り合った理想が少しでも実現していくことを目指している場所です。これから僕らはどんな社会を目指していきたいのか?どんな社会が幸せな社会なのか?これからの未来をただ漠然と生きるのではなく、より主体的に社会に関わりながら生きる為に様々な人達と語り合う。そして語り合った中で、見えてきた気づきを1つでも多く行動に移していく。社会に対する自らのスタンスを明らかにしていく。1人1人が理想の社会を語り合い、その理想の実現を目指し、アクションをとっていける場がSocial design cafeです。
二月にも開催されるそうですよ。→Social Design Cafe#4

Social Design Cafeの様子もYoutubeにあったのでシェア!

 で、それはさておき、今回このお二人とあったのには理由がありまして、なんでも3月に”学生団体の幹部クラス(幹部と言っても僕としては、ただの学生のぺーぺーで僕含めみんな一緒だと思っていますが)を招いて【 Next Leaders Cafe 2012 -vol.001- 】を開催したくて、そこに僕の所属している某Kという組織からも来てくれないか?というお誘いで。事前ミーティング的に、一度あってお話ししましょう!ということだったので、「是非」ということで渋谷マークシティーで会うことになりました。

 ミーティングというよりかは、ディスカッションで言いたいことを言いたい放題言ってしまいましたが...反省。イベントの設計の話から、活動する際のスタンスや、信じる哲学など話題は多岐に渡って濃い2時間でした。

 でも、このミーティングで、この活動を通してお会いした2人が”対話によって、世界を良くする”というような想いを持って活動をしていることが伝わってきて、これは応援したいな!と思わせてもらえました。やっぱり”ビジョン”ってすごく大事で、人を動かすにはビジョンは必要な要素だと改めて感じています。こういう熱くて、実際に活動を展開されている方がどんどん増えるともっと、素敵な社会に変わっていくでしょう。負けてられません!

2012年1月11日水曜日

数学科のお話〜極限を例に〜

高校数学の問題
皆さんが、おそらく知らないであろう”数学科”の行っていることを少し紹介しようと思います。数学科というと、毎日”計算”ばかりしているのかなぁ・・・なんて思われていますが、計算は今はコンピューターがありますからほとんどやっていないというのが正直なところです。

じゃあ、何してるんだ言うと”証明”と”存在”というものを行っています。問題には大きく分けて、高校の頃からでも3種類あると思います。
(1)計算問題
(2)証明問題
(3)存在問題

正直な話をすれば、理工学を学ぶ人でも数学科にいかない限りは、意味不明な(2)と(3)を扱うことなんてありません。物理、化学、生物のどれをとっても、”計算”は少なからずありますが、証明や存在についての議論はほとんどないのです。しかも”計算”はコンピューターが複雑なものは処理してくれますので、対してそう言う部分での苦はない。なので逆に言えば、高校生の皆さんは数学科に行かない限り”好奇心”を大事にして理工学部を志してくれればOKです!(実験したいぜ!って言って入れば1年生/2年生の基礎教養でちょろっと証明が出るぐらいで、計算問題がほとんどなので3年生からは楽勝です。実験は大変ですが。)

 ただ、数学科はそんなわけにもいきません。高校レベルの数学が大好きで”数学科”に進む人は多くの場合”後悔”をします。大学の数学に”〇〇の体積を求めよ”や”ここの角度は?”などの問題はないです。皆無です!こういうある程度”センス”や機転を利かせれば解けるような問題はあんまりないですし、解いて計算値が合っているから”やったー”なんて言う喜びも期待しないでください。”これは完璧な証明だ”ということに快感を覚えられないと正直やっていけません。ちょっと具体的に問題を出してみましょう。簡単な問題です。
問題1:lim(1/n) (n→∞)を計算せよ
問題2:lim(sin(x)/x) (n→0)を計算せよ

高校では理系と呼ばれる人たちの常識ですね
lim(1/n)=0 (n→∞)
lim(sin(x)/x)=1 (n→0)
となります。これらは、高校で十分に演習しているはずで今更とやかく言うような問題ではありません。(覚えとけ!っていうレベルです)。ただ、アルキメデスや、ニュートン、ガウスの時代はこの問題意識だったんです。これで、「ニュートン力学」が成立しているのでかなり強力な武器です。アインシュタインももしかしたらここからの話は気にしてなかったかもしれません。理工学部でも数学科・数理学科以外はここまでで十分です。ですが、ここからが数学科のやることです。


問題1:lim(1/n) (n→∞)を証明せよ
問題2:lim(sin(x)/x) (n→0)を証明せよ

この問題になると、「lim」のコーシーの定義が基本で、これを覚えておかなければ手も足も出ないということが起こります。え、なにそれ・・・おいしいのって感じですね。

さらにこんな問題が
問題3:lim(1-1/2+1/3-1/4+・・・・・+((-1)^n+1)/n)(n→∞)の存在を示せ
こうなってくると、実数論の公理(デデキント)を覚えておかないといけません。以下の(a)〜(c)は証明は省きますが、どれも同値な主張であり、「実数論の公理」と言えます。
(a):上に有界な集合A(in R(実数全体集合)はsupAを持つ
(b):R(実数全体集合)内のコーシー列は収束する
(c):R(実数全体集合)内の上に有界な単調増加列{Xn}(n=1 to ∞)は収束する

コーシー・リーマンの定理
そして、こういう問題を解いていく過程で直面する問題を、みんなは”問題”として認識し、自らの論を展開し解き、証明をしていく。数学科ってそういう場所です。なんか自己満足っぽいですが、そういう面も否めないです。ですが、数学科がやることはこれだけではないんです。ここからたくさんの世界が広がっています。コンピューターサイエンスや、情報処理、アルゴリズムの構築などの分野には、少なからず上のようなことで発見されてきた公理・定義・定理がベースになっている。

空を飛んで、社会を俯瞰するのと同様に、原理・原則という深く潜ることから見える、大きなテクノロジーの動きもまたおもしろいと感じています。

コンテスト形式〜その意味は?〜

ここ数年のことですが、様々な場所で”ビジネスコンテスト”を始めとする、”コンテスト”なるものに接してきました。その中で感じることがあったので、書いておこうと思います。

出会いの場
「コンテストを実施する意味」について考えたことがあるでしょうか。正確には何故”コンテスト”なのかということです。僕は、3年間もこういう世界にいるためか、毎回ビジネスコンテストが”何故”コンテストという形式でイベントを行うのかを考えてしまいます。

 審査をするだけで、優勝を決めるのであれば別にそんな形式はいりません。審査員7名と参加者を集めてそこで審査をすれば良いだけです。それで賞金を渡して、頑張ってくれ!って言えばそれで事足りるのではないですか?

 では、参加者の意識的なゴール設定という役割でしょうか。でも、考えてください。コンテストをゴールにしたいと思っている人はいないはずです。そこには、おそらく”次に羽ばたいて欲しい”という想いが込められてるのではないでしょうか。ただ、皆無ではありませんね、一時的なゴール設定とモチベーションの維持という役割を仮のゴールという意味でコンテストは果たしています。ですが、コンテストでなくても、それは果たせるはずでしょう?

 もう少し”違う”例を挙げましょう。”優勝チーム”へ「伯」を付けるためですか?いえ、ビジコンにおいても「伯」は大した財産になってはいません。それは”学生”だから通用している話のように思えます。
 じゃあ、もし何かのコンテストで優勝したとしてそれが”就職活動”に影響しているでしょうか。聞く話によれば、”大して影響していません”。これが結論です。別にコンテストで優勝したことが、求められる能力があることに直結しているわけではないのです。もちろん、これをスキルだと思ってみてしまう場合がありますが、多くの場合見誤ります。

 僕は、こういう風に考えていく中で「今の世の中」の多くのコンテストは、コンテストという形式を取らないでも良いと考えています。そこには、最後は”大きな”ことをしたいとか、団体の広報になるとか、参加者の”欲・優勝したら名誉がある”なんていうモチベーションのかき立てを行う材料でしかない。こういう目的のもとで開催されるコンテストは、今後のびていかないでしょう。自分たちが何故コンテストという形式を取るのかについてもっと真剣に考える必要があります。

 ただ、ここで終わってしまってはおもしろくないので、僕のいる組織が何故”コンテスト”を開く意味があるのかについて、自分なりの見解を述べておこうと思います。

結論から言えば「コミュニティー」を形成するためです。

 私たちの組織は、慶應義塾をインキュベーションのプラットフォームとして機能させることを目指しているため、コンテストの大きな特徴は”大学”であり、かつ卒業生の強い起業支援ネットワークが存在するということがあります。
 このような、バックグラウンドが存在する中で”コンテスト”が果たす役割は、慶應の学生で起業する人が、起業を支援する卒業生と出会うためのきっかけであり、支援者が一同に集う”きっかけ”としての役割を果たしています。
 また、支援者も多くの方は卒業生ですから、支援者同士のネットワークも強固であり、更に新しい支援者を連れてきたりします。しかも、連れてきてもすぐに馴染むことができる。このような出会いの場として機能している。即ち、コミュニティー形成の役割が強いわけです。
 そのため、コンテストで意図が読めない”経営者”の講演などは絶対にしないようにしています。それは、コミュニティー形成に何の関係も生まないし、それ以上にその後に繋がることはありません。
 また、コンテストにおいて(本年は違い、振り返って反省していますが)観覧者が質問できない状況は”コミュニケーション”の妨げです。なので、審査を2部制にし、「審査員の前での発表」及び「観覧者の前での発表」という形式に分けています。

 コンテストには、コンテストにしか果たせない役割があります。そして、意図が必ずあるのです。僕が改めて”問いかけたい”のはコンテストをやる意味です。企業に営業に行けば、”コンテストには〇〇人来るので、そこに広報できます”なんていうことを言いますが、あなたは何故”コンテスト”という形式を取るのかの意味が、人集めのためだったり、大きくやっていることを見せたいだけなら、それはコンテスト形式が”機能不全”に陥っているということを認識した方が良いと思います。

 私はコンテストが役割は”恊働”という言葉に尽きると思います。人と人が出会い、紹介し合い、新しい動きがどんどん加速されていく”きっかけ”の場としての機能です。これをわからずして、コンテストを実行しているのは”わかっている観覧者”から見ればすぐに飽きてしまう。 だから、コンテストにいれる観覧も実は”質”を問われているということ。運営者は”紹介して人と人を繋ぐ”という役割を果たしてるのかをみられているということ。(よくスーツで後ろに立っている人を見ていると、仕事ないなら逆に休んでくださいって思います。)

 皆さんが、もしコンテストを開催するのであれば”その意図”は?というのを明確にしていくことをお勧めします。そうしないと、コンテストという形式が”意味がない”にもかかわらず、協賛金のためだけにせっせと開催準備をしないといけなくなります。それぞれの組織に合った形で、イベントは設計され、課せられたミッションを達成していくことこそ望ましい姿だと私は思います。それがいかに小さいイベントであろうとも、意図ある設計は必ず評価されます。

 もし、今学生組織の皆さんが”何か”不安になって、悩んでいるんだとすればそれは自分たちの過去の継続を考えるというところに問題があるからです。今はどこの組織も”量”よりも”質”を求められるような時代になっている。だからみんな悩む。意味・意図なきモノは”消える定め”だと思います。これが皆さんの活動の少しでも考え直すきっかけになればとてもうれしく思います。

【転載】僕は自分が思っていたほどは頭がよくなかった

素敵な記事を見つけたので、シェアしたいなーと思って。
元記事の内容をそのままコピーさせて頂きました。
元記事:http://d.hatena.ne.jp/tictac/20120110/p1
Redditで話題になっていたポストを訳してみた。

僕は自分が思っていたほどは頭がよくなかったという高校生の独白にたいしてつけられたこのちょっと長めの返信がとても的確で示唆に富んでおり、多くの人のこころをつかんでいました。私自身、勇気づけられるというか身につまされるところがあり、忘れないために翻訳をしてみました。

まずは高校生の独白から。

僕は自分が思っていたほどは頭がよくなかった
僕はいま高校の最終学年で、次の6月に卒業する予定です。高校の成績は、いままでずっとAを取りつづけていましたが、去年始めてBをとってしまいました。もしそのBがなければ、卒業生総代に選ばれていたでしょう。

総代にふさわしいのは自分だ、つまりクラスで本当に一番頭がいいのは自分だと思いたいです。でもこの一年で、僕にそれほどの知性はないし、僕より頭のいい人はたくさんいるんだということを思い知らされました。

また僕は、自分の頭のよさについて、少なくとも自分自身に対して嘘をついているところがあります。成績表からAがひとつ盗まれちゃったんだということにして、自分自身を納得させようとしているんです。でも心の奥では分かっています。あのBは、僕への正当な評価だということを。あれ以外にも、他のいくつかの科目でBをもらってしかるべきでした。どうにかそれは避けられたわけですが。

最近、SAT (大学進学適性試験)を受けたら1900台のスコアでした。ただ単に怠けていたからこの結果だけど、本気を出したらもっと全然すごいスコアがとれるはずと考えました。なので、その後もう一度受けてみました。よく出来た感触はありましたが、結果は前回よりたった約40点よかっただけでした。

昔は、自分はMITに行けるものだといつも思っていました。でも、その可能性はゼロに等しいんだという厳しい現実が明らかになってしまいました。たぶん親元を離れずに地元のつまらない大学にいくことになるんだろう、と今になって悟りました。あぁ。

あーそれに、僕の趣味といえばゲームとRedditだけなんです。クラブ活動とかも全くしてないし。車の免許さえ持ってない。終わってる。まぁ、これはぼくの知性とはなんの関係もないことですが。。。ただの愚痴です。

対する返信。
どうも、遅れてすいません。新年を祝うのに忙しくて(笑)。君がまだこのスレをみているとよいのですが。

さて。私はちょっとユニークな視点を持っていると思います。私は、MITの入学試験をいままで様々な視点で見てきました。受験生として、学生として、教師として、そして今は有望な学生を面接する卒業生として。君がMITに触れているのをみて私は、ちょっと時間をかけていい返信をすべきだなと思いました。

入学試験に関する標準的なアドバイスから書き始めるつもりでした。(例えば、SATのスコアは大した問題じゃないよ、とか。)そんなアドバイスもありでしょう。しかし君の抱えている問題は入試云々よりも遥かに大きなものです。君が遭遇しているのと同じ問題に同級生たちがぶつかるのを私は何度となくみてきました。もし昔の記憶をここに再現できるなら、新入生の頃の私を君にみせてあげたい。

私は意気揚々とMITの寮に引っ越してきました。とりあえずMITに入学したのです。加えて、一年生の微積分と物理の単位をすでに取っていました。つまり一年先の数学、微分方程式と、物理2という難しい方の物理から始めることができたのです。履修登録は簡単にできて、私は自分の決断に満足でした。

時間が経ち、壁にぶち当たりました。私は高校時代それほどよい生徒ではありませんでした。悪い成績をとれば、適当ないいわけをしたものです。そんなものどうでもいいとか、忙しすぎたとか、やる気がでないとか、(そしてたいていの場合には)他にやるべきことがあったからだなどと言って。いい成績をとれば、エゴが満たされました。自分はちょっとやる気がないだけで、他の誰よりも頭がいいんだと思えました。しかしいまや、そんな考え方は通用しませんでした。私はそれまでMITを全く見くびっていたのです。ほんとうに惨めな気持ちでした。

幸運なことに、私のとなりの部屋にはRという賢いやつが住んでいました。Rは、控えめに言っても、優秀な学生でした。彼は2年生でしたが、学部で最も進んだ数学のクラスにすでに出席していました。彼はMITに来て、微積分、多変量微積分、微分方程式、線形代数、実解析(MITで最も難しいと悪名高いクラス)、そしてその他多くの数学の単位を取得しました。そしてなにより、彼は魅力的で、やる気があって、社交的でした。人間なら1つや2つあるだろう欠点もこれといってありませんでした。

微分方程式に半学期悩まされたあと、プライドを捨ててようやくRのところへ助けを求めに行きました。確か彼は私の教科書を一晩借りて復習して(彼は小学3年生からの全ての授業内容を憶えているわけではない)、その後、私の分からないところをひとつひとつ丁寧に解説して教えてくれました。その結果、学期末に私はB+をとり難を逃れることができました。ここでひとつ大切なことがあります。それは、彼が教えてくれたことのなかに、頭の回転が早くなければ理解できないことなどひとつもなかったということです。彼のことを知るにつけ分かったことは、彼の知性と実績のほとんどは、まさに勉強と鍛錬によってもたらされているということでした。そして、必要に応じて学んで訓練をした知性の道具や数学の道具を蓄積した結果として、彼の大きな道具箱があるのだと知りました。彼はそれらの道具をいくつか見せてくれましたが、私にとっての本当の収穫は、自分独自の道具をどうやって探して、つくって、改良するかという方法を理解したことでした。Rに憧れ、尊敬をしていました。私は、彼のずば抜けた能力と張り合えるようには一生なれないだろうと思うと同時に、その原因がなんだかも分かっていました。私と彼を比較すれば、私は信念に欠如しており、彼は信念にあふれているということです。遺伝子の偶然などということではなく。

「頭がいい」ことが成績の良し悪しを決めるのだと言って自分自身を欺くのは簡単なことです。とても多くの場合で、これはあり得るなかで最も安易な説明です。なぜなら、これを認めれば努力をする必要もありませんし、自分の失敗をただちに正当化してくれるからです。君はいま気づかずにこの罠にはまろうとしています。君は最初の2段落では自分の知性を問題としていますが、続けて、自分にはふさわしくない良い成績をとったと言って卑下していますね。やる気のなさが、クラブ活動をしていないことの要因だとは君は思っていますが、SATスコアの要因とは思っていないようですね。(おもしろい事実:SATの成績と最も相関の高い変数はSATのために費やした勉強時間です。)君のこの最後の一文は、投稿した文章全体にもあてはまってしまうでしょう。

> まぁ、これはぼくの知性とはなんの関係もないことですが。。。ただの愚痴です。

君がAをとったのは、君が勉強をしたかあるいは授業内容が簡単だったからです。君がBをとったのは、おそらく、どうやって扱ったらいいのか分からないことや、そう簡単には腑に落ちないようなことをすぐ理解してしまうのに慣れすぎたからだと思います。思うに、君は早いうちに認知と知性に関する道具をつくり上げて、新しいことを身につけたり処理したりということを素早くできるようになったのです。でも、あまりにもそれに頼り過ぎてしまって、それだけでは対処できない事態に必要となる、ちゃんとした道具一式を全く発達させなかったのです。私がそうでした。でも、大学一年の一学期に壁にぶつかるまではそれに気づきませんでした。君に質問があります。だれか今までに時間をかけて勉強の仕方を教えてくれた人はいますか?それとは別に、先生やカリキュラムなしで自分自身で勉強する方法を君は学んだことがありますか?これらは習得することのできる最も重要な道具です。なぜなら、この道具を使って、さらに強力でさらに遠くを見通すことのできる道具をつくることができるからです。それがだた雪だるま式に大きくなることで、Rのようなひとになるのです。

MITの卒業率は97%です。つまり入学したほとんどの人が卒業します。3%の卒業できない人とその他の卒業できる人を分けるものがなんだか分かりますか?私には分かります。私は何回もそれをみてきましたし、私自身危うく卒業できないところでした。MITの4年間を、卒業できないほどの悪い成績で過ごす人はほとんどいません。実際、そういう人を一人もすぐには思い出すことができません。MITを卒業するのに失敗する人というのは、入学して、いままでに経験したなによりも難しい問題に遭遇し、助けを求める方法も問題と格闘する方法も知らないために燃え尽きてしまうのです。うまくやる学生はそういう困難にぶつかったとき、自分の力不足と馬鹿さ加減に滅入る気持ちと闘い、山のふもとで小さな歩みを始めます。彼らは、プライドに傷がつくことは、山頂からの景色を眺めるためであれば取るに足らないということを知っているのです。彼らは、自分が力不足であると分かっているので助けを求めます。彼らは知性の欠如ではなく、やる気の欠如が問題だと考えます。私は、やる気をみつける方法を教えてくれる人と出会えて幸運でした。インターネット上でできることは小さなものですが、私があなたに対してその役割を果たすことが出来ればと願っています。私は大学一年目の挫折から立ち直り、学業がとてもうまくいくようになり、同級生、下級生のティーチングアシスタントを務めるまでになりました。4年生のときには、寮で新入生の横に座り、私がかつて先輩から教えてもらったことと同じことを教えたものでした。そして彼らが、かつての私が抱いたものと同じ感情と闘い、それを克服するのをみてきました。MITを卒業するまでに私は、入学時に尊敬していた人になっていたのです。

君はとても若い。頭があんまり良くないのではなどと悩むには本当に若すぎる。年をうんととってボケ始めるまでは、「頭がよく」なるチャンスはあるのです。括弧付きで言ってみたのは、「頭がよい」というのは単に、「とても多くの時間と汗を費やしたので、難なくやっているようにみえるまでになった」ということを言い換えているに過ぎないからです。君は、自分は燃え尽きてしまった、あるいは、燃え尽きてしまうかどうかの岐路に立っているという風に感じています。でも実際には、燃え尽きることにするかしないかを決断する岐路に立っているのです。これが決断であるということを認めるのは怖いことです。なぜならそれは、君にはなにかをする責任があるということですから。でも、それは力が湧いてくる考え方でもあります。君にできるなにかがあるということですから。

さぁ、やってごらん。

2012年1月9日月曜日

〜日本のこれから〜マクロを読み解く


家にこもってテスト勉強×読書を満喫した1日でした。
本で読んで考えさせられたことです。

マクロな視点を忘れて、目先のビジネスにばかり惹かれていると、後々とんでもないことになりかねない。マクロもミクロどちらも、しっかりと見ることで始めて見えてくる真実があるんじゃないかと最近感じている。
ミクロな流れの多くの体験と情報は”Social"や"ネットの海”に溢れているし、人に会えば聞き出すことが可能だが、残念なことにマクロな流れはこのような手段で得られることが少ない。ミクロな情報に惑わされているせいか、日本では空前絶後の起業ブームだ(ほぼ全部、IT/Web)。さて、彼らは、マクロな視点を忘れていないだろうか。

最近の話を少ししておくと、”日本の経済”について話すとき、ファクトに基づいた”分析”と”意見”が言えない人が多いような気がしている。”デフレ”だの”景気が悪い”だの、その原因に”国際競争力が落ちている”や挙げ句の果てに”中国の台頭が著しい”なんていう事実をあげてしまう。
前者は何を根拠に言っているのかわからないし、スイスIMDデータを見て17位(?)だったことを指して発言してるのなら、「あなたは、自分の健康診断の総合評価がC(A/B/C/D/E)だからといって、対処できますか?」という質問を投げ返さなくてはならない気がします。というもの、原因を国際競争力なんていう意味不明な抽象的な順位で説明されて、順位が低下していることが原因ですは、対処の使用がありません。それ問題の本質じゃないですよねと返されてしまいます。
それと後者の”中国の台頭”問題ですか。。。なくなれば、稼ぎ柱がなくなりますよってなもんですが、大丈夫ですか?。これを学生に混ざって社会人があげてしまっている現状に不安を隠せないです。マスコミもひどいもんだなぁと、最近テレビを見て(Youtubeですが)感じています。

こんな偉そうなことを書いていますが、僕も2年前まで同じようなことを言っていた”くそ学生”です。ですが、ある人と会って、そんな軽率な考え方じゃダメだと指摘受け姿勢を変えて真面目に経済学を勉強してきました。すると、データを見るだけでたくさんのコトがわかるんですね。国が出している様々なデータは読み解き方を知らないと、ミスリードしてしまいます。是非一度”経済学”を学んでみてください。すると、おもしろいぐらい”視えてくる”ものがあります。

Joseph E. Stiglitz著
経済学を学ぶなら、僕はこの本がおすすめです。おそらく、経済学部の人なら一度はしっかり読んでいるであろう経済学の王道のような教科書。
ただ、少し難解な部分があるかもです。

2012年1月7日土曜日

学生組織の紹介


 今、関東で活躍中のビジネスコンテスト、政策立案コンテスト、起業サークルを紹介します。学生の皆さん、一度は所属してみるといいかもしれません。本当に、得るものもたくさんあるし、何よりたくさんの素敵な出会いがあります。人としての成長機会もあると思います。


ーーーーでは、紹介!(追加等あれば連絡ください)ーーーーー

☆applim ( http://applim.jp/ )
 applimアプリムは大学生を対象としたマーケティングコンテストを主催する学生団体。「新しいマーケティング手法に触れ自らマーケティング手法を創るを理念に掲げ2010年度にソーシャルアプリとスマートフォンアプリを題材とした二度コンテスト開催し2011 年は企業商品をアプリケーションを用いてマーケティングするコンテストを開催している本年も活動を行予定

F-DooRs ( http://fdoors.web.fc2.com/ )
 F-DooRsとは過去7回にわたって開催されている 立命館大学学生ベンチャーコンテストを運営する学生団体学生ベンチャーコンテストみならず講演会や立命館大学ビジネスアイデアコンテスト など企画運営を行 F-DooRs自身は自ら考え行動し学ぶ学生を立命館大学から発掘育成輩出するを団体理念として活動

☆em factory ( http://www.em-factory.com/ )
em factoryは2004年に発足し、em factory2012で10年目を迎える全国学生環境ビジネスコンテストを企画・運営する学生団体。全国から集まった仲間と共に過ごす充実した一週間の合宿を通して、 環境を事業として取組む必要性と可能性を体感してもらうことを目的にコンテストを開催してる。
 学生ため国際ビジネスコンテストOVAL2005年から今回で10回目を迎えるアジア最大級ビジネスコンテスト日本中国韓国学生90名が泊まり込みで英語によるビジネスプランニングを行い優勝を目指す異国学生と真剣な議論を通して価値観相互理解国際的視野獲得を目指している

 学生のためのビジネスコンテストKINGは、1996年から学生のみで運営されている日本最大級のビジネスコンテスト。全国から応募し、高い倍率の予選を勝ち抜いた学生120名が、6人チームに分かれ78日の合宿を通して、優秀なビジネスプランの策定を行うコンテストを運営している。2012年は825日~92日の78日間でKING2012を開催する予定。

GEIL ( http://www.geil.jp/ )
「学生のための政策立案コンテストGEIL2011」は今年で13回目を迎える日本最大級の政策立案コンテストです。毎年、経済産業省・東京都・松下政経塾などのご後援や多数の企業からの協力のもとにコンテストを運営を行っている。2012年も開催予定
KBC実行委員会http://www.keio-contest.org/ )
 KBC実行委員会は、慶應義塾からアントレプレナー精神溢れる人材を輩出し、未来への先導を果たす新事業を世界へ創出することを設立当初から変わらないミッション掲げて活動を行っている慶應義塾の学生のみで構成される組織。慶應義塾の卒業生や、大学組織との連携を活かし、ビジネスコンテスト等を開催している。

☆See-D Contest ( http://see-d.jp/ )※学生組織ではない。
See-D contestは、日本の技術力と途上国のニーズをつなげ、途上国が抱える課題を解決する製品をより多く生み出すことを目的として活動している。2010年度は、東ティモールをパイロットテスト地に選んで、製品開発・普及モデルを開発している。現在、コンテスト出場チームが製品開発を行い、導入を目指している。
 TNKは東京大学唯一の起業サークル。この団体では、新たな価値を創造し社会の未来を切り開くリーダー=「創新者」の輩出を理念として掲げ、わたしたち自らが創新者たるべく日々夢を持った仲間たちが切磋琢磨しております。具体的には勉強会や講演会を開催している。

 TRIGGERは日本最大の学生向け起業直結型のビジネスコンテスト。TRIGGER運営委員会は、参加者が自分自身の未来を切り開くためのきっかけ、そしてその舞台を提供し、共に新しい未来を創ることを目的に活動を展開している。ビジネスコンテストに加え、講演会やセミナーなども開催をしている。
一橋起業部 ( http://www.kigyoubu.com/ )
 起業に関心のある学生に対して、情報共有・交流・スタートアップのためのプラットフォーム作り。とりわけ、ITの分野でのスタートアップに関して活動を展開している。セミナーや勉強会を中心に活動を行っている。

明治大学ビジネスコンテストhttp://mbc-meiji.com/ )
 明治大学内で明治大学生による学生団体2011年4月26日に設立され、「ビジネスコンテストを通じて明治大学底上げををコンセプトに未来起業家創出起業家精神育成を掲げ、「明治大学から起業家増加をビジョンにコンテスト交流会セミナー講演会等を行明治大学生による学生団体